#01 川柳は(あなたが思っているよりも)おもしろい/暮田真名
日本に暮らしていて、川柳が「五七五」であることを知らない人は意外と少ないのではないかと思う。
これが短歌や俳句となるとそうはいかない。歌人は「短歌っていうのは五七五七七で季語はいらないやつです」、俳人は「俳句っていうのは五七五で季語がいるやつです」といちいち説明しなければいけない、と彼らが嘆くのをたびたび耳にする。
川柳が「五七五で季語がいらないやつ」であることを広く知らしめているのは、おそらく「サラリーマン川柳」の存在である。
過去3年の1位作品を引用した。これらの作品によって、川柳は「五七五で季語がいらないやつ」であると同時に「サラリーマンが会社や家庭生活の愚痴を吐き出すための手段」であり「時事ネタを絡めたダジャレみたいなやつ」であるというパブリックイメージが作り上げられている。
しかし、それが川柳のすべてだと思ってもらっては困る。私がこの連載を通して紹介するのは、たとえば次のような川柳だ。
「何を言っているの?」「どう読めばいいかわからない」と戸惑いを覚える方もいるだろうか。私が適宜案内をするから安心してほしい。
上にあげた句を鑑賞する前に、もういくつか「サラリーマン川柳コンクール」の過去の受賞作をみてみよう。
最初に紹介した過去3年の受賞作とあわせて考えれば、「第一生命サラリーマン川柳コンクール」という場において前提とされる「サラリーマン」とは必ずといっていいほど妻ないし子を持っていて、つまり「家庭」を築いており、家庭内では適度に疎まれているものの、会社と家庭の板挟みにも耐えられる健康な心身を持ち合わせ、「理想のプロポーション」を失った妻へ非難の視線を向けたり、妻のとりとめもないおしゃべりに嫌気がさしたりしている「男性」であることが分かるだろう(ちなみに、サイトに掲載されている第5回〜第34回の1位作品のうち「妻」の視点から詠まれたものは第18回「オレオレに 亭主と知りつつ 電話切る」の1句のみ)。
サラリーマン川柳の「笑い」を支えているのはおびただしいほどの固定観念と規範意識である。
人は特定の勤労に従事しているはずだ(特に、「会社勤め」をしているはずだ)
「会社勤め」ができる程度に心身ともに健康であるはずだ
結婚し、家庭を築いているはずだ
妻は美しいプロポーションを保つべきだ
子供を持っているはずだ
「男性」であるはずだ
…
つまるところ、サラリーマン川柳の笑いとは「社会にとってより望ましいあり方」のスタンプを集めた者にささやかなご褒美として贈られる飴玉のようなものだ。
さて、サラリーマン川柳ではない川柳を鑑賞する準備は整った。
これらの川柳では、人は「サラリーマン」である必要も、「男性」である必要もない。それどころか、人のかたちを保つ必要もない。川柳は人を絶え間ない変身に駆りたてる。川柳のなかで、私は「春の小川」になったり、「気体」になったりする。温度の変化によってかたちを変えていく水のように、少しの条件の違いによって。姿を変えられるのは私だけではない。私以外の人も、たとえば「白い木槿」へとたちまちに変身する。これは「サラリーマン」が明日も「サラリーマン」であり、「上司」は明日も「上司」であり、「妻」が明日も「妻」であるようなスタティックな世界観とは正反対である。
人のあり方をぐらぐらと沸騰させる川柳は、やがて社会通念をも揺り動かす。「Ladies and gentlemen」、この社会で強固に当然視されている「女と男」の組み合わせに「どうして」を差し挟むことだってできるのだ。
私がこの連載を通して伝えたいのは、川柳はあなたが思っているよりもおもしろいということ。そしてなにより、自由であるということだ。
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