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#10 高地民イメージの「はじまり」

リングにあがった人類学者、樫永真佐夫さんの連載です。「はじまり」と「つながり」をキーワードに、ベトナム〜ラオス回想紀行!(隔週の火曜日19時更新予定)

©Masao Kashinaga
ライチャウ省タンウエン県にある白タイの村にいたとき、雨季のたまさかの晴れ間に
ベトナム最高峰ファンジパン山が姿をあらわした。左奥の峰(2002年)

 ベトナムでみごとな棚田が有名な景勝地といえばサパだ。中国国境に近いこの町は、もともとフランス植民地期に避暑地として開発されて以来の歴史がある。だがそれゆえに観光地化されすぎてもいる。インドシナ最高峰ファンジパン山(標高3143メートル)の頂上までいけるロープウェイができ、天空に大仏さんまでいる。ちなみに、ここ最近、観光地という観光地に大きな寺が建てられているそうだ。それはいいとして、わたしがS氏をサパではなくムーカンチャイにお連れしたのは、壮大な棚田風景を地味に静かに堪能していただきたかったからだ。
 渓谷沿いにへばりつくようにしてある小さなムーカンチャイの町の裏手に、景観を損ねるという批判の声を受け建設途中のまま放置されている巨大ホテルがそびえている。つまりここにも観光化の波は押し寄せているのだ。だが、他のどの観光地からも遠く交通も不便なため、その日、観光客らしい人の姿は見なかった。
 町には公務員や商人のキン族もいるが、この海抜千メートルをこえる高地に、谷底から天にのぼる棚田の階段を築いてきたのはモンだ。
 モンについて、S氏にわたしはこんな話からはじめた。

建設途中のままの巨大ホテル(2019年、イエンバイ省ムーカンチャイ)
モンの棚田。高床の建物は家屋ではなく出作り小屋だろう(2019年、ムーカンチャイ)

「ア・フウ夫婦物語」

 ベトナムの食堂などで店主や店員とちょっと言葉を交わすと、興味津々に「どこから来た?」「名前は?」「ここでなにしているんだ?」など、矢継ぎ早の質問にあう。そんなとき、ちっとは芸のある返答がしたい。
 「山からきたモンだよ。名前はア・フウ」などといってみる。相手はたいがい笑ってくれる。ときには「じゃあ、わたしはミーよ」とまで、冗談につきあってくれる気の利く女性もいる。モンといえば、主人公がア・フウで、ミーがヒロインの「ア・フウ夫婦物語」なのだ。
 1953年に発表されたちょっと古い小説だが、学校の教科書にも載ったし、ベトナム戦争中の1961年に映画化もされたから北部の人なら誰でも知っているほど有名だ。おそらくキン族が抱いているモンや、少数民族のイメージにこの作品の影響は大きい。
 負けん気、正義感ともに強く、優しく心根はまっすぐで、腕っぷしがやたらに強いみなしご、といえば、わたしなんかの世代だと宮崎駿監督(アレグザンダー・ケイ原作)の「未来少年コナン」を思い浮かべるのだが、ア・フウはそんな少年が成長したようなモンの若者だ。
 ある正月、村長チョン・ラウの息子ア・スウは、若い男女が笙や笛を吹き、歌って踊ってまり投げをして遊んでいるところにナンパしに行き、ケンカをふっかける。そのア・スウをア・フウが返り討ち、頭を木の独楽でかち割ったうえパンチして血祭りにあげる。だがア・フウは相手の手下たちにとっつかまり、ブタのように縛られ棒に吊されチョン・ラウ、ア・スウ親子の家に運び込まれると、拷問を受け、不公正な裁判にかけられ、課せられた高額の罰金の返済のため奴隷にされてしまった。

陰暦正月に、着飾ってまり投げ遊びをするモンの男女(2007年、ディエンビエン省)
モンの正月遊びの駒遊び。ぶつけ合って競う(2007年、ディエンビエン省)

 実はア・スウには妻が何人もいた。そのうちの一人が、父親の借金のカタとして嫁がされ、労働にこき使われ虐待されているミーだった。
 ある日チョン・ラウの家では、トラに家畜が襲われ牡牛を失った。ア・フウにその責任が押しつけられた。またもや激しい拷問を受け、縛られたまま死を待っているだけの彼を、同情から縄をほどき助けたのがミーだった。このままここで殺されるよりはましと、二人は村から逃亡する。
 物語はインドシナ戦争期(1946-1954)に激戦区だった西北地方が舞台で、チョン・ラウが権勢をほしいままにしていたホンガイは、ギアロから南に直線距離で50キロくらい、歩いて3日以上かかりそうなホアンリエンソン山脈の相当険しい山中にある。チョン・ラウら村役人は、盆地のタイ族の首領たち同様に、侵攻してきたフランス軍の手先となって横暴の限りを尽くし、土地の人を抑圧し困窮させていた。夫婦としてふるまうア・フウとミーはホンガイをでた後も、フランス軍やその配下たちにひどい目にあわされる。
 だが、いっぽうでベトミンゲリラは紅河デルタから西北地方に潜入して地下工作を開始していた。フランス軍やその傀儡たちに対して反感をつのらせている住民たちを味方につけ、蜂起をくりかえし解放区を拡大しつつあった。物語の最後で、ア・フウもかれらに共感し活動に身を投じる決意をする。ミーというヒロインの存在、強大な権力と闘いながら新天地をもとめて冒険する点も、「未来少年コナン」にちょっと似ている。
 この『ア・フウ夫婦物語』はトー・ホアイ(1920-2014)による『西北地方物語』3部作のうちの一つで、刊行の翌1954年に文芸一等賞を獲得した。まだベトナムが国際的に独立を承認してもらうために残留日本人兵も参加して闘ったインドシナ戦争期の、ひとことでいえばプロパガンダ小説だ。フランス軍と現地の手下たちはどこまでもワルで、対するベトミンゲリラは良識ある優等生的「正義の味方」、搾取と圧政に耐えている現地の人たちは純粋、けなげで、かつあわれに描かれている。
 こうした型にはまった「キャラ分け」は差し引いて読むとして、工作員として西北地方に自ら潜入し、現地タイ語やモン語を習得して山間部を遍歴した作者の鋭い観察眼が、モンの新年行事、シャーマニズム、略奪婚といった民俗の描写に生かされていて、民族学的にも面白い。この隣人たちのエキゾチシズムに、たぶん山地少数民族の生活など想像もできない平地人のキン族は戦慄さえしたにちがいない。

モンは山頂近くに土間の家を建てて住む(2007年、ディエンビエン省)

少数民族イメージ

 S氏が問うた。
「ア・フウの物語がベトナム人に広めたモンや少数民族のイメージって、どのようなものだったのでしょうか」
「まずは、おそろしく封建的かつ因習的だということ、つまり不平等で、露骨に男尊女卑で、迷信的、非科学的、というイメージだったのでしょう」とこたえてから
「共産主義者からすると、封建的とは悪そのものでした。首領、地主、役人らは貧しい善良な民を抑圧し、搾取によって財と権力のみならず、きれいな女性まで独占し、怠惰にアヘンまで吸って快楽に溺れて遊んでいるのだからどうしようもない…。いやはや、うらやましいかぎりです」と笑って小休止。
「いっぽうで、大多数の人たちは自然相手の過酷な労働環境のなか汗とホコリにまみれ、不衛生で貧しい生活を余儀なくされている。しかし、教育がないのでだまされているとも気づかず、能天気に歌って踊たりしていて、科学とは無縁で迷信深くかわいそうな人たち…そんなイメージだったのでしょう」
 S氏は続けて尋ねた。
「でも、フランスを追っ払うと社会主義化し、首領も地主もいなくなりました。すると…」
「そうなんですよ。モン社会で搾取しまくっていたワルがいなくなっちゃった。しかし、そのあと、搾取から解放された幸せな人たちへとイメージも変わったのかというと、そうではありません。かわいそうな人たちは、やっぱりかわいそうなままでした。
 いじめられてかわいそう…ではなくなったかもしれませんが、遅れていて未開だという見方には変わりなく、貧しくて、汚くて、愚かだからかわいそう、となったのです。
 でもいっぽうで、女の子は明るく純粋でかわいくて、しかも快楽主義的で性も奔放という、オジさんたちをドキドキさせる山中異界のイメージも強くなりました。つまりキン族は、自分たちの息苦しい社会を反転させたイメージをそこに投影させたのでしょう。
 しかし、ベトナムがそれなりに経済発展し、都会の人が余暇を楽しむようになった2000年くらいから、ちょっと変わってきました。それは外国人の影響もあります。
 というのは、だいたいベトナムは昔からタイなどとちがって観光のリピーターが少ない。ハロン湾でも、フエでも、ダナンでも、タイのリゾート地などに比べると割高ですし、物売りはしつこいし、ボッタクリにもあうし、交通はめちゃくちゃだし、人が多くてどこもかしこもうるさくてくつろげない。ですから、観光客の満足度は高くなかったのです。
 これに対して、サパやマイチャウのように山間部の古くに開発されたエスニック観光地は、その前から外国人に人気があり、リピーターもいた。自然豊かで静かだし、人の物腰も柔らかですからね。
 2000年をすぎると、経済発展と国際化のなかでベトナム人の価値観も変わり、「科学」こそがありがたく、「自然」は劣るとはかならずしも考えなくなってきました。外国人が民族観光を楽しんでいるのを受け入れ、少数民族の文化に対しても、未開なものとしてバカにしなくなってきたのです」

フランスが避暑地として開発した寒冷地サパは、
観光地としてゲストハウスや商店が建ち並んでいる(2013年)

山中異界の住民

 歴史を遡ると、キン族にとって山はずっと異界だった。
 紅河デルタを占めたキン族は、10世紀以降ひたすら海岸部のせまい平野を南へ南へと進み、海にも出なかった。日本人なら漁港にしそうな小さな入江を、キン族は埋め立てて田んぼにしてしまい、そこに池をつくりコイやソウギョを養殖して川魚を食う。
 他方、山に対しては強烈なおそれがあり、社会主義体制下での強い規制にもめげずに生き残り、近年ますます盛況のレンドンというシャーマニズム儀礼でも、ムオンなどの民族衣装っぽい女性の装束で演じられる山の精は、格段に神威の強いカミさまだ。
 わたしはこんなことを思い出した。
「ぼくが黒タイの村に行き始めたころ、ハノイの人などがよくぼくにいいました。『まじないにかかって、山から戻って来れなくなるよ』って。
 どういうことかというと、山地の少数民族の村などに行った人が、『もう帰りたくない』といいはじめたり、戻ってきたらふぬけになっていて、いつも山の世界をなつかしんでいる、なんてことがよくあります。それはまじないにかかっちゃってるからなんです。山の人たちってのは、そういう術をかけるのがたくみなんだと。キン族はそんなことを割と真顔でいっていました。その観点からすると、ぼくなんか完全にやられちゃってます」
 S氏が笑って
「外国人旅行者たちも、多くがやられちゃってるんですね」と返したので、
「そういうことでしょう。でも、そのおかげでベトナムにたくさん外貨が落ちるから、政府はまじない大歓迎のはずですよ」と、いっしょに笑った。
 ちょっと注意を要するのは、キン族が山といい、山地民といってイメージするのは、主にムオン白タイ、黒タイなどだ。どの民族も、たしかにキン族からみると山の方にいるが、盆地や谷間を灌漑して水田をつくり、天秤棒を担いであるいているのだから平地に適応していて、山人ではない。その意味で、険しい山のうえのほうに村をつくり、斜面を広範囲に焼いて畑にし、家畜を放しているモンこそ山人、山岳民といってもいい。
 このモンに対するベトナムでのイメージは、メディアの影響により少々偏ってきた。そのイメージとは、インフラが整備されず教育も行き届いていない山奥でくらす、文明とのつながりが薄いケシ栽培者、というものだ。かつてテレビのニュース番組でも、モンの隠し畑が摘発され公安にケシを処分される映像がよく流れていたが、モンはこっそりケシを栽培し、あるいは道なき山中の国境越えでラオス側からヘロインなど不法薬物を運んでくるとして悪役だった。
 もちろん裏社会で末端の仲買人が、モンのところに違法薬物やその材料を買いつけに都市から出向いていくのであって、モンだけを悪者にするのは不公平だし、不合理だ。いっぽうでモンにはベトナム戦争中も反共ゲリラとしてアメリカ側について闘った者も多く、またベトナム語が話せない人も多く、ベトナム国民化が遅れている民族だ。モン社会に介入する口実を得るために、彼らを悪者にしておいた方がベトナムにとって都合が良かったのだろう。
 余談だが、白タイの村にいる公安の友人の家に招かれた約15年前のある日、たまたまかれは任務でモンの隠し畑のケシを処分して戻ったところだった。没収して持ち帰ったケシの茎を、その夜、炒めてごちそうしてくれた。香りがよく、みずみずしくおいしかった。

カウファー展望台

トゥーレの盆地を見下ろすカウファーの丘には展望台ができ絶景だが、雨も多い
(2019年、イエンバイ省ヴァンチャン県)

 今回はいきなりムーカンチャイに多いモンの話から始めたが、この日、ムーカンチャイにたどり着くまでにわれわれが通ったギアロからの道中に、ザーホイとトゥーレという盆地がある。ザーホイにはザオ(中国ではヤオ族に分類)が多く、トゥーレには白タイが多い。
 この険しい山の中の道を1960年代に整備したのは中国の工兵らだ。トゥーレにはその慰霊碑も残っているから事故や病気で命を落とした者も多かったのだろう。2000年正月にはじめて福田さんとその道をムーカンチャイからトゥーレまでおりてきたとき、市場付近に個人商店がいくつか並ぶ程度の町しかなかった。
 わたしたちが昼食をとったのは、地元の白タイ家族が経営している小さな食堂だった。ギアロ付近でももっとも米がおいしいとされる土地だけあって、米も食事もおいしかった。いちばん覚えているのは、店を手伝っていた、20歳くらいの娘さんとしゃべったことだ。
 彼女は快活で話し好きで、日本のことにも興味津々だった。わたしが黒タイ語でも話しかけると、
「日本にもタイ語が話せる人がいるのか」と不思議そうに尋ねた。
 軽い冗談のつもりで
「いるとも」と答えた。すると、
「じゃあ、わたしも日本に行きたい」と目を輝かせ、今すぐにでも旅支度をしてわれわれのバイクにしがみついてでもついてきそうな勢いだった。わたしは少しうろたえ、逃げるようにトゥーレを後にした。
 そのころのトゥーレは、大雨でも一度降れば交通が遮断され、ギアロからもムーカンチャイからも孤立してしまった。隠れ里のような美しい村だった。だが、今はムーカンチャイへの国道沿いのカウファー峠に展望台が築かれ、ドライブインもできてにぎわっている。
 険しい山の懐にいだかれた盆地をドライブインのテラスから見おろし、風の音を聞いていると、民族衣装をまとった山仕事帰りらしいモン女性が一人、同じように静かに景色に見入っていた。S氏は機嫌良く付近をうろつき、植え込みでまだ花をつけていない野生スミレをめざとく見つけ出し、感動してみせてくれた。

トゥーレの盆地の白タイの村にある、ベトナム戦争中に道路整備などをおこなった中国人の墓と聞くが、門柱だけしか残っていない(2005年、イエンバイ省ヴァンチャン県)

タイ族の悲しみ

 ギアロからムーカンチャイを経てトゥアンザオへと抜けるわれわれの行程には、トゥーレのみならず、トー・ホアイの『西北地方物語』に登場する土地がいくつもある。翌日トゥアンザオに向かう途中に通過することになるダー河に近いムオン・ゾンも、そのうちのひとつだ。
 『西北地方物語』の一篇「ムオン・ジョン物語」(ムオン・ジョンはムオン・ゾンのこと)にこんな伝説が紹介されている。

 むかしむかし、イエンチャウに美しい乙女がいた。香しい黒髪はとりわけ
 美しく、村中の若者が彼女に恋をした。ある日、彼女が露台で髪をとかし
 ていると、一羽の大きなワシが舞い降りて彼女をさらった。若者たち皆が
 追い弓を射たが、届かぬ大空へ舞い上がって去った。空の高いところから
 彼女が裂いて落とした上着の切れ端だけが残った。ワシはギアロにある山
 の岩穴のねぐらに戻り、彼女を妻にした。彼女は故郷を恋しがり、死ぬま
 で岩穴の口で虚空を見つめていた。

 ワシはフランス軍、イエンチャウの乙女は蹂躙された現地タイ族、若者たちはフランスに抗戦する人たちのたとえだろう。ついでに当時ギアロには、戦闘機も離着陸できる仏軍基地があった。

石灰岩の山々に抱かれてひっそりたたずんでいるムオンゾンの白タイの村

 トー・ホアイが工作員としてこのあたりで活動していた1950年前後、黒タイや白タイ首領のなかにもフランス側についた者と、ベトミン側についた者がいた。
 恩師カム・チョン先生の伯父カム・ズンや実父カム・ビンらマイソンの黒タイ首領一族はベトミン側についた。いっぽう、翌日われわれが立ち寄るトゥアンザオを当時支配していたのは黒タイ首領一族バック・カム家だった。ファディン峠を隔てて東側のトゥアンチャウ首領一族バック・カム家の分家で、本家と同じくフランス側についた。
 トゥアンチャウ最後の首領バック・カム・クイは、最初ベトミン側についていた。だが、1946年に起こったベトミンによる犯行と思われる親族2人の変死事件によりフランス側に寝返ったのだ。
 バック・カム・クイは1952年、ハノイ経由でフランスに逃げた。カム・チョン先生がその側近たちから伝え聞いたという話では、彼は銃声を聞いただけで震え上がるほど臆病だったが、人柄がよくて地元では人気のある殿様だったそうだ。
 トゥアンザオ最後の首領の息子は、フランス語が堪能だった。ディエンビエンフーの戦いのときフランス司令官ド・カストリ将軍らの通訳として、陥落してベトミンに投降するまで仏軍と行動を共にした。拘留後、社会主義の再教育を受けたのち温情措置で釈放された。
 ディエンビエンフーへと進軍する前に家族をフランスに送り出していたから、村にもどった彼は、家も財産も失って身ひとつだけ。いくらか親族はいたが、家族のいないひとりぼっちの農夫になった。
 はじめて彼を訪ねたのは1997年のことだ。
 小さな高床式家屋の露台に、田舎の市場ではとても手に入りそうにない質の良いセーターを着て垢抜けた、端正な顔立ちの老紳士が、丸い籐椅子を置いて腰かけている。遠目にでも、ただ者ではないとわかる品位をそなえている。あらかじめわたしの来訪を知っていた彼はわたしの姿を認めると、片手をあげて口にした。
「ボンジュール・ムシュー!」
 その日は朝から夕方までその家で、彼の親族らと食事をごちそうになり、しこたま飲んだ。フランス語、ベトナム語、黒タイ語交じりだったが、彼がフランス語もよく使ったのは、お目付役の村長と公安が同席だったせいもあろう。
 完全に酔っ払っていたわたしは、ヘタなフランス語を絞り出し、調子に乗ってこんなことを言った。
「ディエンビエンフーの戦いのとき、黒タイがみんなフランス側についていればフランスは勝ちましたよね。トゥアンザオもトゥアンチャウもバック・カム家はフランス側についたのに、なんで平民たちの多くはベトミン側についちゃったんでしょうか」
 彼は思慮深い表情でしばらく間を置いてから、ひとことひとこと、いいきかせるように丁寧にいった。
「わたしはフランスにしたがうしかなかった。ベトミンにしたがうしかなかった人はベトミンにしたがった。ただそれだけのことだよ」
 40年以上彼の心の中を去来し、自分にいいきかせてきたことばだったのかもしれない。苦しみぬいたその重みを、平和ボケの日本でぬくぬくと甘ったれて生きてきたわたしに受け止められるわけがない。恥ずかしくて酔いのさめる思いだった。

フランス植民地期までここに黒タイ首領や貴族たちの館があり、ヤシの並木道があった
(2011年、ソンラー省マイソン)

参考文献
トー・ホアイ他 1962 『西北地方物語—ベトナム小説集』(広田重道、大久保昭男訳)東京:新日本出版社

樫永真佐夫(かしなが・まさお)/文化人類学者
兵庫県出身。1995年よりベトナムで現地調査を始め、黒タイという少数民族の村落生活に密着した視点から、『黒タイ歌謡<ソン・チュー・ソン・サオ>−村のくらしと恋』(雄山閣)、『黒タイ年代記<タイ・プー・サック>』(雄山閣)、『ベトナム黒タイの祖先祭祀−家霊簿と系譜認識をめぐる民族誌』(風響社)、『東南アジア年代記の世界−黒タイの「クアム・トー・ムオン」』(風響社)などの著した。また近年、自らのボクサーとしての経験を下敷きに、拳で殴る暴力をめぐる人類史的視点から殴り合うことについて論じた『殴り合いの文化史』(左右社、2019年)も話題になった。

▼著書『黒タイ歌謡 〈ソン・チュー・ソン・サオ〉―村のくらしと恋―』も是非。ベトナムに居住する少数民族、黒タイに伝わる恋の歌『ソン・チュー・ソン・サオ』の翻訳と解説。歌に盛り込まれている黒タイの文化や生活を詳しく紹介されています。


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