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#18 カミ、カメ、人の「つながり」

 リングにあがった人類学者、樫永真佐夫さんの連載です。「はじまり」と「つながり」をキーワードに、ベトナム〜ラオス回想紀行!(毎週火曜日更新予定)

©Masao Kashinaga

11月28日(木) 22:50〜 ルアンナムター
 朝6時に托鉢僧がホテルの前を通ると聞いていたので、5時半起床。6時から外で待ったが夜も明けていない。なかなか来ないので退散。6時半に来たと、あとで聞いた。
 7時に朝食をとり8時半頃出発した。博物館で地域の民族、文化、歴史の解説を受け、プータートの仏塔を詣でウドムサイをあとにした。
 昼すぎにナーモー村を訪ね、ルアンナムターに着いてから14時半頃おそい昼食。黒タイのプン村、ルーのナム・トゥン村を訪ね、ホテルにチェックインしたのは夕方6時。7時頃ナイトマーケットを訪ねると、以前は小さなステージまであった場所から移動し、路面の屋台通りに変貌していてガッカリ。近くの食堂で8時頃夕食。

メコン支流ウー川沿いにあり、水上交易で発達したムアンクアの船着き場。
青いボートが水上バス(2019年)

 前の日の話で恐縮だが、タイチャン国境からラオスに入国したあとは、ムアンクアで昼食をとり、ある辻の市場に立ち寄って休憩した以外は道路をひた走った。夕方6時半ごろウドムサイのホテルに着き、ホッと一息つくとS氏がいった。
「たしかにベトナムとちがってラオスは人が少ないし、すべてゆったりしていますね」
 旅行前、わたしがラオスのイメージを、「怒っている人と急いでいる人をみない国」と形容したのを覚えていたのだろう。
 もっとも2010年代から首都ビエンチャンなどでは車が激増し、さすがにかつてのノホホンさはなくなってきた。とはいえ地方はあいかわらずのんびりしている。

ウドムサイの黄金の仏塔(2019年)

盆地の景観

 ウドムサイもディエンビエン、トゥアンザオ、ギアロのような盆地にある。国は異なるが景観は似ている。
 まず盆地を埋め尽くす水田、はりめぐらされた水路。付近の村には黒い筒型スカートを身にまとった女性たちがいて、広義のタイ語を話している。地域の生活を支えている市場にあらゆる人たちが集まり、色鮮やかな民族衣装で飾った高地民の姿もそこにある。
 ベトナム側とで大きく異なっている点は一つ。ラオスでは小高い丘のてっぺんに、黄金色の仏塔が天を突いていることだ。ウドムサイも例にもれない。上座仏教の国だからだ。
 ベトナム西北部だと、盆地から目立つ丘のうえに仏塔はない。黒タイ白タイが仏教化していないからだが、過去に少し遡ると、そんな丘は彼らにとってもやはり信仰のシンボルだった。
 北ベトナムが独立して社会主義化する20世紀半ばまで、そういう丘に生國魂いくたまとしてのくにの守護霊が宿っているとされ、禁足地だった。麓には「くにの守護霊」のシンボル、「くにの柱」がたっていた。
 カム・チョン先生によると、それは龍とツバメのシンボルがついた木製の円柱だった。龍とツバメの対は、「#14」で紹介した龍ヒメと燕ヒコの契りの話を思い出させる。その柱の近くでタイ族の首領はスイギュウを殺して、盛大な祭礼を開催し人々は歓喜した。
 もしかするとそれが仏教化する以前の古い精霊崇拝の姿かもしれない。だとすると、こう解釈できる。
 ラオスにおける仏教化は「くにの柱」を仏塔に置きかえた。木の柱が金の塔になるとともに、たてる場所も麓から頂上へとひきあげられ、仏法の力が天のいちばん近いところから遍く衆生を照らすようになった。するとかつて禁足地だった神域全体も、俗世を離れた仏僧たちが勤行する聖域へとかわった。俗人たちはそこに来て、癒しと救いを得る。のみならず教育、医療、福祉などのサービスも受け、地域との「つながり」を感じるのだ。
 全国的に仏教化が進んだのは16世紀だ。1527年、ポーティサラート王は守護霊信仰を禁止して、精霊祭祀の祠をこわしまくった。いっぽうで北タイのチェンマイに都をおくランナータイ王国から王のむすめを妃に迎え、大量の仏典を運び入れて全国に仏教寺院を建立した。丘のうえに仏塔、という景観もそれ以降のものだ。

「グララアグア」百万の国の「はじまり」

 そもそもラオスにいつ仏教が伝来したのだろうか。
 伝説によると、14世紀に今のルアンパバンを首都とするランサン王国をたてたファーグム王のときだ。
 ちなみにランサンとは百万頭のゾウを意味している。タイが「微笑みの国」ならラオスは「森の国」。だが、ゾウ百万頭すめるほど森だらけ、という意味ではない。宮沢賢治の『オツベルと象』では怒ったゾウたちがグララアグアと咆哮して攻め寄せたものだが、そのグララアグアの咆哮百万の戦力を意味している。今のラオス人のおとなしさからは想像しにくいが、強大な軍事力を誇っていたのだ。
 「クンブロム年代記」によると、ディエンビエンのナノイ村に降臨したクンブロムには、奥さんが二人いて、7人の息子を得た。その息子たちに世界をそれぞれ分けた。長男クンローがムアン・サワー、つまり今のルアンパバンを分封された初代の王で、ファーグム王は第23代の後裔だ。
 ファーグム王の事績は伝説に満ちている。まず彼の父が祖父の怒りを買ったからだとか、歯が33本生えて生まれた不吉な鬼子だったからだとか、理由はともかく、彼は幼くしてムアン・サワーを追放されメコンを下った。

アンコールワット(2001年、カンボジア シェムリアップ)

 クメール(カンボジア)のアンコール王宮で僧侶と出会い、クメール王に育てられることになる。聡明で武芸にも秀でた彼は養父からその娘を妻に授かると、兵を率いて力づくでまつろわぬ者どもを成敗しまくってメコンを遡り、ついに故郷ムアン・サワーで1353年、ランサン王国の初代王となった。このとき妻の願いにより、アンコールから高僧を招き仏教化したという。ちなみに王国の領域は、現在の中国雲南省シプソンパンナ、ベトナム西北部、タイ北部をも含んで広大だった。
 もっとも歴史学の成果によると、ファーグムが生きた14世紀よりも前に、先住民モンによってこの地域に上座仏教がもたらされていた事実が指摘されている。
 話が少しそれるが、注意しておきたいのはモンとしてカナ表記される民族についてだ。このモンは、われわれがムーカンチャイで「お宅訪問」した、高地民モンとはまったく別の民族だ。今のミャンマーやタイのデルタ地域をビルマ系やタイ系の民族が占める前に先住していた低地民の方のモンだ。かれらはそこに6世紀には王国を築き、上座仏教を取り入れた。今のルアンパバンあたりにも低地民モンの勢力は及んでいたのだった。いっぽう、繰り返しになるが、高地民のモンが中国から南下して東南アジアに広がったのは主に19世紀だ。

ラオスのオイディプス

 ファーグム王の話に戻ろう。ファーグム王は現ラオスへと連なるランサン王国の建国の祖として、正史でも崇められている。そんな偉大な王だが、晩年も幼少期と同じく不遇だった。宮廷内の対立により追放され、現在のタイ北部ナーンで客死したのだ。
 ファーグム王一代の伝承はオイディプス王の話と似ている。どこが似ているのか。精神分析学でおなじみ、エディプスコンプレックスの元ネタとしても有名なソポクレスの悲劇『オイディプス王』のあらすじから述べよう。
 テバイ国王の息子として生まれたオイディプスは、「こやつは父を殺したうえ、みんなを不幸にするから生かしといちゃダメよ」との神託により、足を傷つけられて捨てられる。だが偶然のなりゆきから隣国の王に育てられすぐれた成長をとげた。
 いっぽう、青年オイディプス自身もまた「父を殺し、母を妻とするだろう」という神託を受けたから、育った国を捨て放浪の旅に出る。その途上、実父とは知らず「見知らぬ男」を争いで殺してしまう。
 その後、たまたま自分の生国テバイにいたった彼は怪物スフィンクスの謎を解いて民を救ったことから、テバイ王となり、未亡人だった先王の妃を妻に迎える。だが、そのうち実は彼がテバイの王子だったという出生の秘密が明らかになる。
 すべては神託どおりだった。王妃はショックのあまり自殺し、彼も自らの両目を突いてつぶし、国から追放される。
 精神分析学でこの物語は、息子による父殺しと近親相姦がメインテーマだ。だがファーグム王の話に父殺しも近親相姦もない。似ているのは次の3点だ。
 まず、神託に基づき追放された身体的異常性をもつ王子だという点、次に、流離放浪ののち英雄として故国の王になる点、最後に、国を追われて死ぬ点だ。

フランスパン、卵焼きにハム、コーヒーのホテルの朝食(2013年、ビエンチャン)

 

ラオスのお隣さんたち

 ウドムサイでのホテルの朝食はアメリカンスタイルだった。メインはオムレツとハム。ケチャップの瓶もちゃんと食卓にある。もちろんパンとコーヒーつきだ。
 S氏は少し驚いていた。
「ベトナムでこういうアメリカンな食事はなかったですね」
 ラオスはベトナムの隣で同じ社会主義国なのに、こういうアメリカンな朝食が、地方の町にまで広まっているから、ベトナムから来るとビックリする。やはりタイの影響が強いせいだろう。
 冷戦時代、ベトナムから他の東南アジアの国々がドミノ式に共産化するのを防ぐべく、アメリカはタイに集中投資し、同国を消費文化漬けにし、米兵が楽しむ保養地もつくった。
 いっぽうラオスは社会主義国だし人口も少ないから資本主義的な娯楽文化が発達しにくい。情報やエンタメはほとんどタイ国から来るのだ。ことばは同じタイ系でラオス人には簡単だから、みなふだんからタイ国のテレビ番組を見ている。
 このままではタイ国に経済も社会ものみこまれてしまいそうにみえる。だがそのいっぽうで、ラオスの軍や行政の幹部には、同じ共産主義の隣国ベトナムへの留学組が多い。そのうえ今は中国の経済的な影響がめちゃくちゃ大きい。 

多民族のラオス

 朝食がすむと8時頃ホテルをチェックアウトしてプータートの丘にある博物館と仏塔に向かった。
 博物館では、サイ君があらかじめ申し込んでおいてくれたガイドの案内をきくことができた。解説はウドムサイ県に暮らす主な少数民族の衣装をつくる、染織の技術や材料についてだった。なにしろウドムサイ県は人口の80%が少数民族なのだ。
 ラオスの民族数は2000年に49と公式に発表された。だが民族数がいくつかよりも、この国で重要なのは、低地ラオ、山腹ラオ、高地ラオの3グループのいずれに分類されるかだ。
 低地ラオは高床家屋が並ぶ村に定住し、盆地を灌漑してスイギュウに犂をひかせて田んぼをつくっている。ラオルー、黒タイ、白タイなどのタイ系民族がそれだ。主食はモチ米で、上座仏教徒が多い。ただし黒タイ、白タイは仏教徒ではない。
 山腹ラオは谷の奥などに村をつくり焼畑を耕している。狩猟や竹細工も得意だ。モン・クメール語系の集団が多く、宗教は精霊崇拝。タイ族が入植する以前の先住民たちとされ、北部ではコムーがその代表だ。
 高地ラオは山頂近くに土間の家が集まる村をつくり、焼畑でうるち米やトウモロコシを主に栽培している。これに含まれるのはチベット・ビルマ語系のアカ、モン・ヤオ語系のモンやヤオなど、18世紀以降に中国から移住してきた集団だ。伝統的には精霊崇拝だが、20世紀以降キリスト教化も進んでいる。
 このようにラオスでは、盆地か、山のなかか、山の上かで住んでいる人たちの言語、移住史、家屋の形態、生業経済、宗教と信仰、食文化などがちがっている。そして人口は低地ラオ、高地ラオ、山腹ラオの順に多い。こうした伝統的な住み分けは、これまでも述べたとおりベトナム西北部にもそのまま当てはまる。
 ただし市場経済化以降、ラオスではこうした住み分けが崩れてきた。高地ラオに焼畑耕作をやめさせ定住化させるため、国道沿いの低地への移住を強制したからだ。
 いっぽうベトナム側ではダム建設に伴う立ち退き強制はあったにしても、高地民を低地に定住させる強制移住は少なかった。それは1960年代からキン族を西北部に入植させた結果、すでに遊んでいる土地が少なかったからだ。

民族みな兄弟

マイチャウの盆地風景(2000年)

 なぜ低地に水田をつくる集団と、山地斜面で焼畑をつくる集団とにわかれているのだろうか。こんな話がベトナム西北部マイチャウの盆地を占める白タイのあいだに伝わっている。

 始祖たちはもともと紅河上流域にくらしていた。だが、人口が増えて土地がなくなった。彼らは新天地をもとめて出帆し紅河を下った。
 紅河デルタの入り口まできたものの、キン族やムオンがすでにいた。やむなく今度はダー河を遡り、マイチャウの地に入植した。だが、ここにもすでに先住民サーがいて、サーとの衝突がたえなかった。
 あるとき彼らはサーにこうもちかけた。
「神の意をきこうではないか。木に吊した石に双方が矢を放ち、矢を石に刺すことができた方がここに住む。それが神の意だ」
 かくして射的競争で決着をつけることになった。はたして先住民の勇士の放った矢は石にはじかれて落ちた。しかし白タイの勇士の放った矢は、あらびっくり! 的の石にピッタンコ!
 実は矢の先にミツロウをつけて細工していたのだった。サーの親分はハメられたとも知らず、ききわけよく家族と仲間すべてをひきつれ、山へと去って焼畑をしてくらすようになった。

腰機で布を織る山腹民コムーの女性。
低地民のタイ系民族の織機はふつう高機である(2002年、ウドムサイ県)

 同じ話がラオスにもある。たとえば、低地民のラオと中腹にすむコムーとが、ルアンパバンからメコンを少し遡ったウー河との合流点付近にあるタム・ティン洞窟の岩壁に矢を射て競った話だ。その結果、弟のラオが成功させて土地の王になり、敗れた兄のコムーは山で焼畑をしてくらすようになったという。ただし、この場合ラオが矢の先につけていたのはミツロウではなく糊だった。
 おもしろいのはこの話が、敗れたコムーのあいだでも伝えられていることだ。にもかかわらず、あとで「ご先祖さまをだましやがって!」とコムーたちが怒って山から下りてきて「土地を返せ」とラオの村を襲撃した、なんて話はきかない。
 のちのち紹介するつもりだが、山腹や高地にすむ民族はある種の自嘲的な話を伝えていて、これもそうした類型の一つだろう。彼らは達観しているのか、「ご先祖さまのころから、自分たちはオロカだったんだよね」と、恨むことなく平地民への従属を受け入れているようにさえみえる。
 もうひとつおもしろいことは、コムーが兄でラオが弟、という民族間の兄弟関係だ。始祖クンブロムがあらわれたナノイ村のところで紹介した人類誕生の神話でも、ひょうたんからサーたちが兄として生まれ、そのあと黒タイが生まれたのだった。ラオスのコムーも、焼いた鉄の棒で開けたひょうたんの穴からコムーが先にススだらけになって出てきて、そのあと広げた穴からラオが白いまま出てきたと伝えている。
 「ひょうたんから人」タイプの伝承はラオスにバリエーションが多いが、生まれた順は固定している。まず山腹ラオ、次に低地ラオ、最後が高地ラオ、またはキン族や漢族の順だ。キン族、漢族までが登場するのは、数は少ないとはいえ、各地に商人などとして入りこんでいたからだろう。地域への入植順に兄弟の順が決まっていて、コムーはかならずラオの兄なのだ。

カメと人

 博物館を出ると丘の頂にある仏塔を拝み、次の目的地、黒タイのナーモー村を目指して出発した。
 日が一番高い時刻に到着したから村ではすべてがギラギラと眩しく暑かった。十年前の同じような日に訪ねて以来だ。ここがサイ君の生まれ故郷なのだ。
 前回は夕方到着するなり、彼のご両親から熱烈歓迎を受け、あっけなくベロンベロンに酔っ払った。近所から人も集まり宴会が始ったときにはすでに泥酔状態で、まもなく寝床に運びこまれ朝までうなされてたおれていた。そんなわけで村でのわたしの評価はボロボロだ。だが、酒豪のS氏にその仇をとってもらうための再訪ではない。
 建て替えでなくなったサイ君のもとの生家に、大黒柱的な意味合いをもつサウ・ヘという柱の上の方に、竹の網代が巻かれそこに木の彫り物が二つあったのを覚えている。ひとつは独楽のような形で、もうひとつはカメを模した形だった。
 ベトナム西北部で1970年頃までに建った古い家屋で、サウ・ヘにホンモノのカメの甲がついているのを見たことがある。サイ君の生家のもその習慣だ。もっとも、カメが減ったせいでカメの木像で代用していた。そこで今回、そんな伝統がまだあるのかどうか確認したかったのだ。

サウ・ヘの上部の左側面に、木の彫り物がふたつ(2011年、ナーモー村)

 結論からいってしまおう。その習慣は廃れていた。
 村に、ぱっと見で黒タイの家と判別できる家はなくなっていた。だが家のなかには黒タイに特徴的な、父系の祖霊を祀る小部屋「家霊の間」が、部屋の奥に今もつくられていた。また、その位置との関係からどの柱がサウ・ヘかは意識されていたが、そこにはなんの呪物もつけられていなかった。
 ちなみに、サウ・ヘの上の方にカメの甲をつける旧慣は、カメと人間との神代からの友情を記念したものだ。こんな神話がある。

 地上の人間も動物も植物も、すべて天帝テンの創造物だ。
 ある日、地上にテンの死が伝えられた。動物はみな弔問にむかった。もちろん人間もむかった。
 その途中、倒木に行く手を阻まれてカメが立ち往生して困っているのを人間は見つけ、カメを脇に抱えて倒木を越えさせてやった。
 ちなみに人間の脇がくさいのは、そのときカメのうんちが脇についたからだ。
 カメはお礼にこう耳打ちした。
「ホントのこと知ってんだ。テンが死んだってのはウソだよ」
 日も雨も山も川もすべてテンの恵なのに、動物たちはテンの死を悲しまなかった。だが人間だけは精いっぱい慟哭しテンの死を嘆き悲しんでみせた。だから、人間が地上のすべての動物を食べ、利用し、地上に君臨することになった。そこで人間はカメに対する恩を忘れないために、家のなかでいちばん大事な柱の上にカメの甲を置くようになった。
 いっぽう、テンは自分の死を悼まなかった動物を打ち据えた。だからフクロウのくちばしは曲がっている。

 実は伝統的な黒タイの家屋そのものが、カメの甲の形そのものだった。だが、この形の家も20世紀末にほぼ姿を消した。人間はカメへの恩などきれいさっぱり忘れ、カメのうんちの匂いだって消臭スプレーで一発、「プシュッ!」でおわりだ。
 1960年代から黒タイの家で柱の下に礎石を置くのが一般化したが、それ以前は掘っ立てだった。掘っ立ての場合、建築で最初に地面にたてる柱がサウ・ヘだ。その際、家長の妻の親族が儀礼をおこない、次にトーン・チンの葉に稲のモミをくるんだ包みと、綿の種をくるんだ包みを柱の上に吊るし、竹の網代を巻いた。そこにカメの甲や、木で彫った陽物を吊したのだ。
 サイ君の生家にカメの木像とともにあった独楽の形の木彫りは、陽物を象ったものだろう。

ベトナム側では2000年前後にもう見られなくなっていた「カメの甲」型の黒タイ家屋が、
ラオスのフアパン県だと2010年代でもまだちらほらあった(2011年、ラオス フアパン県)

カメの行方

 ナーモー村を発ち、ルアンナムターに到着してから遅い昼食をとった。夕方までルーや黒タイの村を訪ねてから、夕食の席でカメの話のつづきになった。
 S氏が尋ねた。
「なぜ、カメがいなくなったんです?」
 答えだけいってもつまらないので、こんな思い出話からはじめた。
  2001年ごろ、先の射的競争の話に出たマイチャウで白タイの村に宿泊したあと、ダー河左岸の深い山中をバイクで訪ねたことがある。通りすがりのザオの村で茶店に立ち寄った。
 店といっても民家の軒先に木のテーブルを一つおき、椅子を5,6個並べただけだ。テーブルの中央に皿が一つ。ゆでたアヒルの卵が盛ってある。他にはタバコと駄菓子をちょこっと、農作業を引退したご隠居が売っている。
 一個10円ばかりのアヒルの卵がやたらにおいしい。パクパク頬張っていると、風来坊のわたしに興味をもって集まってきた男たちが、バイクの荷台にくくりつけた荷物を交互に指さし、なにやら議論しはじめた。ザオ語なのでわからない。
 ベトナム語できくと、一人が口を開いた。
「これ、カメ?」
 種明かしすべく、土埃やバイクの油で汚れないように大きなビニル袋で包んでいる荷を解き、中身を取り出した。
「ムーコイだよ」
 カメの正体を知って、みな笑った。
 ムーコイは緑色のヘルメットだ。今でも農村などでかぶっている男性を見かける。軽くて野良で役に立つからだ。実は厚紙製だから銃弾など来たらひとたまりもない。だが昔から人民軍でもこれをふだん使いしている。たしかに輪郭がカメっぽい。
 おとこたちはヤバい商人ではないかとわたしを疑っていたのかもしれない。というのは、とっくにカメは捕獲や売買が禁止になっていたからだ。

写真右寄りと左寄りのバイクに乗る男性のように、ムーコイをかぶっている
農村出身の男性がかつてハノイでも多かった(2001年、ハノイ)

 カメの甲羅や腹甲は漢方にし、肉は食べる中国への輸出向けに、かつてカメはベトナムで乱獲された。西北部でも村人がなけなしのカネのために捕らえて売った。カメは最末端の買取人から仲買人の手へと渡り、最終的にハノイや中国国境の町の元締めが中国へと輸出した。こうして1980年代にはベトナムからカメが姿を消した。わたしはベトナムの池や川で野生のカメを見たことがない。
 おそらくラオスでも似たことがあって、ナーモー村のカメもいなくなったのだろう。

サウ・ヘの柱の上部にくくられたカメの甲(2002年、ベトナム ソンラー省)

カメからオオクワガタへ

 全国からカメを集めるためのピラミッド型ネットワークは、カメとともになくなった。と思っていたら2000年前後によみがえった。このとき収奪されたのは昆虫で、なんと行き先は日本!
 そのころベトナムでこんなニュースが話題になった。ハノイ近郊の山地でチョウ採集の日本人が拘束されたのだ。集めたチョウの数は、万単位だときいて驚いた。おそらく地域住民を巻き込んで収集したのだろう。
 いちばん需要があった昆虫はオオクワガタだった。この場合、虫とり担当の村人も、末端の買い付け人も、どの虫が高値で取引されているのか知らされていなかったから、昆虫という昆虫をとりまくった。仕分けするのは仲買人らだ。村人がバイトで昆虫採集にうつつを抜かすあまり農業放棄、なんてゆゆしき事態に陥って行政が介入した村もあるともきいた。
 オオクワガタは空輸で日本に送られる。元締めはハノイにいた。そのうちの一人を、わたしは訪ねたことがある。
 本業はバイクの修理屋だった。日本の土蔵にあたるような、独立した6畳一間くらいの狭い小屋へと案内された。電気をつけてなかに入ると、小さなプラスチックケースが何百と積まれている。それぞれに、砕いたサトウキビの芯とともに、オオクワガタが一匹ずつ入っているのだ。1匹何千円ももうかる高級品なので、泥棒を用心して元締めは夜はそこで寝るそうだ。何百ものケースの中からガサガサ蠢く音を闇のなかでききながら朝まで過ごすなんて、元締めもなかなかのタマだと感心した。
 オオクワガタは一匹ずつ、身動きできないように普通紙でしっかりくるみ、さらに輪ゴムでとめて仮死状態にする。その紙包み一つ一つを、小さな段ボール箱にぎっしり整頓して並べる。運び屋はそれを機内持ち込みで搭乗して日本に行き、業者にわたすのだそうだ。
 今やこれも昔の話だ。

ナーモー村の黒タイの家屋(2019年)

参考文献
綾部恒雄、石井米雄編 1996 『もっと知りたいラオス』10-26ページ、東京:弘文堂
樫永真佐夫 2017 「くにゆずりした先住の人たちのゆくえ−ベトナム、マイチャウにおけるターイの伝承から」『季刊民族学』160:63-74
菊池陽子、鈴木玲子、阿部健一編 2010 『ラオスを知るための60章』東京:明石書店
ラオス文化研究所編 2003 『ラオス概説』東京:めこん
ラフォン、P.-B.著 2000 「ソンラとギアロの黒ターイの同姓親族について」(樫永真佐夫訳)『ベトナムの社会と文化』2:320-334

樫永真佐夫(かしなが・まさお)/文化人類学者
1971年生まれ、兵庫県出身。1995年よりベトナムで現地調査を始め、黒タイという少数民族の村落生活に密着した視点から、『黒タイ歌謡<ソン・チュー・ソン・サオ>−村のくらしと恋』(雄山閣)、『黒タイ年代記<タイ・プー・サック>』(雄山閣)、『ベトナム黒タイの祖先祭祀−家霊簿と系譜認識をめぐる民族誌』(風響社)、『東南アジア年代記の世界−黒タイの「クアム・トー・ムオン」』(風響社)などの著した。また近年、自らのボクサーとしての経験を下敷きに、拳で殴る暴力をめぐる人類史的視点から殴り合うことについて論じた『殴り合いの文化史』(左右社、2019年)も話題になった。 

▼著書『殴り合いの文化史』も是非。リングにあがった人類学者が描き出す暴力が孕むすべてのもの。

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