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【その6】2回目の結婚

しばらく実家暮らしだった私は2011年の夏にまた都内に部屋を借りた。そしてあんなに傷心だったはずが、私を好きだと言ってくれる男性と付き合いだした。イケメンで英語が堪能で、外資系企業に勤めるヨガに興味がある人だった。そしていつかのデジャブのように、父親はエリート、親に愛されていない、親にずっと諦められてきたと思っている人だった。離婚を2回経験しており、子供がひとりいたが一緒には暮らしておらず、心に深い傷がある人なんだなと思った。私といることで彼本来の良さと溌剌とした明るさが戻るといいなと思っていた。

今思えば、最初から彼を「かわいそうな人」扱いしていることがウケる。

そして面白いくらい前と同じような環境が用意されていた。これを思考の癖をとり払いなさい、チャンスを与えるよ、という神さまからのメッセージだと思っていたわたしは、今度こそしくじらないように、と思っていた。

付き合って1年後には彼が前妻と住んでいた湘南のまだ新しい一軒家に引っ越し、一緒に暮らし始めた。そして2時間弱かけて都内の会社に通いながら、喧嘩とも呼べないような小さないざこざが繰り返される日常になっていった。くだらないことで笑い合う関係に憧れた。そのうち彼を怒らせないように、機嫌を損ねないように、気をつけて暮らすようになった。2人の関係性が少し良くなると私は調子に乗って気を使うことを忘れ、また彼とギクシャクするということを繰り返していた。
一緒に暮らし始めて2年が過ぎた頃に犬を飼うことになった。黒のラブラドールだった。犬が好きだと豪語する彼の、けれど犬にも高圧的なその態度に次第に嫌悪感を覚えた。
なんでそんなに偉そうなんだろう。なんでそんなに人を見下すんだろう。なんでそんなに支配したがるんだろう。そもそもこの家だって前妻と住んでいた家じゃないか。同じ家具、同じ冷蔵庫、同じ洗濯機。私を愛してると言いながら、なぜ住み替えないのだろう。買い替えないのだろう。家にも家具にも全然愛着が湧かない。私って全然大事にされてない。大事なのは犬なんでしょう。ふたりで生きていけばいいじゃない。そのくせ私に触れてこようとするし、拒否したらものすごく怒るし、本当に嫌いだわこの人。なんで付き合ってるんだろう。
そんな風に繰り返し、繰り返し、繰り返し、思っていた。ほとんど自動的にそう思っていた。
けれどここで別れるなんてできない。色々な経済的な計算も働いた。交友関係が面倒くさくなるとも思ったし、わたしが変わらないといけないのだと思っていた。彼をそんな風に思う感じるわたしにたぶん問題がある。どうして私はいつもこんな風になるのだろう。なぜいつも彼になる近しい人と良好な関係を築けないのだろう。友人関係は明るく楽しく、何の問題もないのに。そんな風にリレーションシップがわたしという人間の問題を浮き彫りにするんだと思っていた。

付き合って3年ほど経った頃、私はそんな嫌いな人と2回目の結婚をし、会社もそれを機に辞めた。チャレンジしてみようと思った。ここで逃げたら私はまた同じことを繰り返す。嫌いだという思い込みを払拭できるのは自分しかいない。きっと私に原因がある。私の意識に原因がある。心に原因がある。ならば、諦めずにやってみよう。ヨガをもっと深め、心や意識の勉強を深めよう。最初に出会った時は好きだなと思ったじゃないか。この人はいい人のはずだ。まだ到達していない真理を、本質を捉えることができるようになろう。犬と3人で家族になろう。きっとこの関係は良くなるはず。そんな風に思っていた。

サンスクリット語を学び、ヨガ哲学をさらに学んだ。アーユルヴェーダを学び、講師にもなった。行きたかったインドにも足を運び、精神と身体の浄化に努めた。物事に意識的になるように努めた。
一方であの頃からある黒い澱のようなモヤモヤはことあるごとに浮上し、私をイラつかせた。何かがズレている。言葉と行動と欲求がまだ、ズレている。ヨガへの、世界への献身の心が足りないのだろうか。浄化が足りていないのだろうか。ああ、インドのアシュラムにいつか長期で行きたい。そうしたら心身ともに今度こそ生まれ変われるのかもしれない。
そんな風に思ってインドに想いを馳せていた。

次に続く。

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