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わたし史 ①

ツイ廃の私が念のために他のソーシャルメディアにも新しくアカウント開けておこうと思うほどイーロン・マスクが乗っ取った後の今のTwitterはとても不穏で、累々たるエクソダスの流れに片足だけでも突っ込んでおきたく多くが漂着するMastodonにもアカウントを開けた。
ついでにこういう時にペタッと貼れる自己紹介があれば便利だと思ったので自分史もちょっとずつ纏めることにした。

在米歴は30年を軽く超えて人生で一番長く住んでるのはここマイアミになっている。

日本を出た元々のきっかけは大学受験の惨敗だった。ガチガチの進学校で「頼むから滑り止め受けてくれ。進学率が下がる」と進路指導の先生に何度言われようとも「行きたい学校以外はきっと行きたくない」ととても短絡的に生きてた私は国立1校私立2校で勝負して惨敗し鼻をへし折られた。教育委員会で学校の卒業式に「君達の将来はー」的な挨拶をする立場に居た父は「オマエのせいで道を歩くのが恥ずかしい」といい、私がどこにも受からなかった事によりライバル校に進学率が0.2%くらい劣ってしまった学校はとにかく二時募集に申し込み何処でも良いから合格してくれといい、私のバリューはその辺のゴミ以下になってしまった。

自分の人生で初の挫折・屈辱を味わった私。
人生の中で最も勉強した結果の屈辱でありもう燃え尽きた状態だったので浪人も二時募集も無理だった。なによりも挫折・屈辱まみれの自分が嫌でこの状況を払拭し、みんなが驚くような誰もやらなさそうな事がしたかった。

「留学、、、なんてしたらカッコいいよね」

パッと浮かんだそのアイデアはとても素晴らしいものに思えた。
なので留学することにした。
私を恥じて外を歩くのも憚られた父はウム!とうなづいたし、留学は進学率に関係ないから頼むから二時募集で何処かに入ってから留学してくれと家まで頼みにきた学校はもうどうでも良かった。

ところが、、、。

当時コミカレ入学に必要なTOEFLの点数は450であった。

そして私の点数は、、、、。
底辺の320。

学生ビザがもらえねぇ、、、、。

今更留学中止とかカッコ悪すぎて誰にも言えねぇ、、、、。

18歳の私はとても無鉄砲で自己中だった。
当時神戸にはアメリカ領事館があり私はそこに電話して予約を取り電車で三重から神戸に向かった。なんとかすればなんとかなると都合よく考えるのは昔から得意であった。

領事館の担当の方に直訴する事にしたが、アメリカの治外法権エリアでありながら日本人職員の方のマニュアル通りの応答はあまりにも高い鉄壁であり自由の国のイメージとは程遠かった。
点数が足りなければ何度でも挑戦しなさい、いやすぐに行きたいんです、それは無理です、そこをなんとか。
後ろの方で聞いていたアメリカ人の職員がこちらにやってきた。

キミはいつまでに留学したいの?
出来れば夏休み頃には絶対行きたいです。
なぜそんなにアメリカに行きたいの?
友達がみんなカッコいい!って言ってるし私をバカにしてる親も私を見直すからです!

切羽詰まった感じとベクトルの違う私の熱量はしっかりこの方には伝わったと思う。

ククク、、、と笑いを堪えて私にちょっと待つように言い奥に消えていったその方はしばらくして素晴らしいプレゼントを持って戻ってきてくれた。

グッドニュースをキミにあげよう。

貰ったものは。
当時からおそらくとてもマイナーであっただろう「学生予定者ビザ」という最強アイテムです。Bビザだったので観光ビザ枠だけど、6ヶ月後に学生ビザへの現地での変更が可能でありパスポートには「Prospective Student Visa」という判が押された。タイムリミットは6か月。

そこまでアメリカに行きたいのならキミに6か月あげよう。それだけのアメリカに行くという意欲があるなら向こうで英語の勉強しながらTOEFLを受けてキミはきっとパス出来るだろう。頑張って行ってきなさい。

私の人生が一気に広がった瞬間だった。
そしてアメリカすげーと心に刻まれた。
もう顔も思い出せないけど、この時興味を持って私の話を聞いてくれチャンスを与えてくれたこの方のお陰で今の私はある。

こうして希望通りに夏休みに大勢の友達に凄いね!頑張ってね!と送別会で励まされ惜しまれて私はとても気分良く意気揚々とアメリカへ旅立った。なるべく多くの人に褒めて欲しかったから大学進学でバラバラになった友達がみんな帰ってこれる夏休みに出発したいという私の願いは見事に叶った。

渡米当日に空港には父と母がきてくれた。
行ってきますと言った後は絶対に振り返らないと決めていたから振り返らずに真っ直ぐ歩いた。

その時の私の後ろ姿を服装やバックパックまで、母は認知症で私の事がわからなくなった最近までとても克明に覚えていた。
母は生まれてすぐに父親を戦争で亡くしていてその時の敵国であったアメリカに行くという私の背中を誰よりも押してくれた。
今の私があるのは母のおかげでもある。




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