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読書:天正少年使節の中浦ジュリアン
日本二十六聖人記念館で定価で購入できる(と思う。)
少年使節の主席 伊東マンショや、千々石ミゲルは身分のある人たちで、原マルチノは語学の才能があり四人の中で特出していたという。そんな中でジュリアンは地味な存在だったかもしれない。ローマに行った時もジュリアン一人だけ病気のせい?で公式に教皇と謁見はできなかった(個人的に謁見はできた)しかし最後まで日本に残り殉教したのはジュリアンだった。
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使節の使命が終わった後の四人の人生はそれぞれで、ミゲルはイエズス会を退会し、三人は引き続き神父になるためマカオや長崎で勉強を続けた。神学校がつくられた当初と変わって、当時の日本イエズス会上長は日本人が司祭になることに偏見があり、ジュリアンは41歳になってようやく司祭になることができた。しかし弾圧の中でマンショは早く亡くなり、マルチノはマカオへ追放され、ジュリアンは一人日本に残り20年近くの潜伏生活を続け殉教する。
口の津(南島原)では、表向き棄教したことで赦しを求める信者たちに対し、ドミニコ会の神父たちは「長崎奉行所へ行って棄教を取り消さないと許されない」という厳しい条件を告げた。そんな時やってきたジュリアンは彼らに「奉行所へ行かなくとも、心から悔い改めれば罪は許される」と言ってくれる。こんな日本人の司祭がいたことは信者たちは嬉しかったのではないかと思う。しかしジュリアンが励まし続けた南島原のキリシタンたちは最後は島原の乱で全滅する。乱の数年前にジュリアンは殉教しているのでそんな悲しい出来事を見ないで済んだのは幸いか。ジュリアンの過酷な生涯が書かれた一冊。
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