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きっと私たちは大丈夫

毎日マスクをつけ、店先では除菌をし、帰宅したらうがいと手洗いをする。

未だかつてここまで「自分や他人の健康を第一に考えて生きる」という生活をしたことがあっただろうか。

一生命体として健康を守ることは最低限必要だとわかっているのに、未知のウイルスと対峙して初めて予防の重要性を知った。

事態が緊急を要していた頃より社会は落ち着いたけれど、一体こんな生活がいつまで続くのだろう。

気づけば8月も終わろうとしているし、安倍首相は体調を崩し辞任の意向を示している。コロナウイルスに侵された世界であっても、季節も時世も光の速さで変わっていくのだ。

この予期せぬ流行り病のせいで、予定や目標が狂い、こんなはずじゃなかったと悲しむ人もいれば、大切なひとや自分自身の健康が損なわれた人も数多くいるだろう。

はたまた、ビジネスチャンスと捉えて財を成した人もいるだろうし、フルリモートを機に田舎へ引っ越した人もいるかもしれない。

病は人々の生き方や価値観に良くも悪くも大きな影響を与え、これまでの常識なんて簡単にひっくり返るということを、心身に深く植え付けた。

オリンピックイヤーはコロナイヤーとなり、「人生には予期せぬ事態が起こる」という教えをまざまざと体感する年だったと思う。8月にして一年を総括してしまうのは、2020年という年に、これ以上何も期待していないからだ。

見えない敵に攻め入られ、多くの命を失った。残された私たちは、これからの生き方を考える必要があると思う。それも、真剣にだ。

顔と顔が触れる距離で働くオフィス業務も、人と人が触れ合うすべてのイベントも、説明会も、はたまたレストランでの食事さえも、その在り方を根本的に見直す必要が迫られている。

「そもそもやる必要がない」と判断されたものは簡単に葬られるだろうし、部屋や家具のデザイン、人が歩く動線だって、今後はすべて感染防止を視野に入れて、建物や社会をデザインしていかねばならない。

人々の価値観は、コロナと共存していく社会でどんな風に変わっていくのだろうか。

かくいうわたしも、ここ数ヶ月の自粛生活で人生に必要で大切なものは案外少なくシンプルだと考えるようになった。

例えば、自粛を余儀なくされ以前のように外出ができなかったとき、自宅前の公園を散歩するだけでだいぶ気持ちが晴れた。緑豊かな木々を見たりベランダで植物を育てるだけでも、心が落ち着くことを知った。

これもある意味生存本能なのだろうか。以前は遠出したり都心や郊外へ遊びに行って探していた心の充足を、身近なところからも補給する術を知ったのだと思う。(その分、都心や郊外へ遊びに行ったときの感動がすごい。)

ここ数ヶ月の自分の小さな変化を俯瞰しながら、人間ってとことん順応できる生物だなぁと思う。

もしあなたが自分のいる場所に小さな幸せを見つけることができる人ならば、きっとどんな場所でも生きていけるはずだ。

コロナウイルスは恐ろしい。
絶対かかりたくない反面、かかった人が差別や批判を受けずに生きやすい社会になって欲しい。ウイルスと戦っているときくらい、人間は味方についていて欲しい。

多くの人を苦しめたこの病を、きっといつまでも許すことはできないだろう。
しかし、彼らが私たちの生活や価値観に一石を投じたのも事実である。

感染防止と健康を第一に考えていく社会で、これからの世界はどのように変化を遂げていくのだろうか。

SFの父と呼ばれる小説家、ジュール・ヴェルヌはこう言った。

「人間が想像できることを、人間は必ず実現できる。」

19世紀に生まれた大先輩の人類である彼に、21世紀のわたしも心底同意したい。

もしコロナが収束せずとも、私たち人間はそれなりの解決策や折衷案を見つけていくだろう。

どんな時代であっても発展を遂げる遺伝子レベルの本能と、人類の英知にかけて、きっと新しい生活様式を築いていくはずだ。

価値観と生き方をアップデートしながら、私たちは方法を模索しなければならない。

それが、長い歴史の中で幾度となく繁栄と貧困を、平和と争いを、結果として幸福と不幸を繰り返してきた人間が辿ってきた道なのだから。

きっと私たちは大丈夫。今はただ、そう信じたい。

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