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「糸」

「運命の赤い糸」なんていうけれど、
私たちの運命って、本当に「糸」で結ばれているのだろうか。
あなたは、そんなことを考えたことはないだろうか。
私は、何度も何度も考えたことがある。

赤いのか青いのか、はたまた真っ白だったり透明なのか。
その色はさておき、人生は「糸」のようなもので、自然とそうなるように導かれているんじゃないのかな、と思っている。

これまでの「糸」の軌跡を振り返る

私の人生は、一時帰国を決めた昨年、2020年10月頃から少しずつ方向転換をし始めた感触がある。

オーストラリア、トルコ、台湾。ここ7年で、人、文化、歴史、経験、様々な出会いやご縁があった。けれど、悩んだ末に「母の退院を期に、これまでのベースを半年間、日本へ移してみよう」と決めてからは、自分でも驚くほどにここ数年に湧き出てこなかった行動力が増し、同時に周りからいろいろな方とお繋ぎいただいたり、新たな出会いの機会もこれまでの数倍増えた。

オーストラリアでは、その後私の人生が台湾へと導かれるきっかけとなった、多くの台湾人の友人たちと出会った。英語を学びたくて行ったオーストラリアだったのに、どうやら私には中国語の方が勘が良かったらしく、香港、シンガポール、ベトナム、タイ、マレーシア、インドネシア・・・、周りの移民友達のほとんどが中国語スピーカーだったため、私の独学ブロークン中国語はその後数ヶ月以内に台湾でとある会社に拾っていただけるレベルに到達することになる。(と言っても、この時点ではカタコト。)

英語を話せるようになりたかったのに。
私は何をやっていたんだろう。
でもまあ、ここは、結果オーライ。

すごく正直なことを言うと、台湾へ移住する時には、自分では意図しないご縁が不思議とたくさん繋がって、トントン拍子で仕事が決まり、働けることになったが、本音はすごく迷っていた。

出発前日の成田空港のロビーで、総重量99kgのお引っ越し荷物とスーツケースを前に
「私、ホントに行くの?いまならまだ間に合うよ、どうする?」
って、パスポートとビザを片手に出発ギリギリまで悩んでいたことは、実は極少数の人たちしか知らない。

すごくすごく迷っていた理由があったのだけれど、あのとき飛行機に乗っていなかったら、きっと私の人生は今とは全く違っていただろう。早くに結婚していたかもしれないし、いまや幼稚園や小学校くらいの子供がいたかもしれない。YouTuberだって、きっとやっていなかったと思う。

この時の成田空港で、とあるご縁の「糸」がきっとぷつりと切れてしまったのかも。

台湾での最初の2年間は「職場と自宅の往復」だけがほとんどで、予定がないときは、休みの日も仕事のことを考えるか、ひとりで台北の街を散策するか。日本ではこんなに友達がいたけれど、台湾での会社員時代はほとんどいなかった。孤独だった。だから余計に帰りたくなった。

それでも、会社から2年間出していただいたビザ、私に台湾に住む、台湾で働く、ということを叶えさせてくれたビザが満了するまでは、何としても仕事を全うしたかったから、私なりに2年間必死に頑張った。時には社長も夜中の2時、3時まで、一緒に作戦会議をしてくれた。
そんな前職は、ビザ満了のちょうど2年で卒業させていただくことになった。(このとき、ホントは日本へ本帰国するはずであったが、結局台湾へ戻ることになった。)

会社を辞めた数ヶ月後。
不思議な偶然から、私のYouTuberメンターである有名YouTuberさんと出会うことになる。

「さゆりんもYouTubeやったらええやん!」

その一言から、帰りがけにSONYのコンデジを購入し、見よう見まねで撮影し、YouTubeでYouTubeの編集方法を学び、そしていまに至る。

私は「狭く、深く、専門的に掘り下げる」のと「継続」が大の苦手。
そんな私がYouTuberを3年も続けて来られたことには、視聴者のみなさん、家族や友人たち、私を信頼してお仕事を任せてくださるクライアントさんたちの存在と、彼らへの感謝の思いがあった。

失敗の中で気付かせてくれた「自分と向き合う」こと

2019年はトルコへ行かせていただく機会ができた。

正直、台湾での自分の活動に行き詰まっていた時期だったので、トルコ行きは私にとってチャンスだった。でも、思うようにはいかなかった。

トルコで得られたものもたくさんあった。中東エリアに含まれるトルコという国へのこれまでの先入観や偏見がなくなった。トルコ人はやさしいし、面倒見も良いし、紅茶とサッカーへの情熱がすごい。瞬発力はとても高いがその熱が継続するわけでもない、かわいらしい国民性(笑)、そして、とにかくごはんがおいしい。
日本、台湾、トルコ。
私はどれだけごはんがおいしいところにご縁があるんだろう・・・贅沢すぎる!

このトルコでの日々や葛藤が、その1年後の2020年後半に、ようやくその意味を私に解らせてくれる。

トルコでは「私はSAYULOGで何がしたいのか」を3ヶ月間すごくすごく考えた。
コンテンツ作りよりも、ここを一番悩んだと思う。

そうしてストンと落ちたのが
"Share the dots." (現在は "Sharing the dots." としている)

私はなぜYouTuberをしているのか。
なぜ発信したいのか。
何を発信したいのか。
そして、私は「どう生きたい」のか。

これらを頭の中のメモリが擦り切れるくらいまで悩んだ。
当時はちょっとまだぼんやりしていたけれど、ここ最近、いろんな人たちの手を借りて、その思いは少しずつ言葉になり、カタチになってきた。

"SHARING THE DOTS"
It's a small world, when we learn together.
Share, learn, win, and repeat!
Sayuri Yoshida

過去と向き合ったことで得られた気付き

私が15歳の頃に、我が家は一家離散になった。

家族 破産 鬱 自殺 事故 死

これらのちょっと・・・
いや、相当重めなワードたちは、この時からその後の私の人生に、ずっとずっと何度も何度もつきまとうことになる。これらの経験が私の心の中の「辛すぎる過去に蓋をさせる」ことになる。蓋しておかないと、正直私のメンタルがもたなかったので、しっかりと向き合ったり、振り返ることをしないまま過ぎてきてしまった20年ほど経ってしまった。
ちなみに、この「自分で自分の過去に蓋をして向き合わなかったこと」による様々な支障に気づくのは、2019年の後半である。

そんな中で私がここまで元気で生きて来られたのは、これまで何度もボロボロになっていた私を助けてくれた、当時の恩師や恩人、友人、恋人、会社の社長、上司、同僚たちの存在があったから。

私が15歳の当時の日本では、インターネットは発達しておらず、ポケベルやPHS後期だったので、今ほどに情報が手に取りやすくはなかった。当時、もし彼らと出会っていなくて、私が自ら相談したり、情報を聞きに行ったりしなければ、もしかしたら今がなかったかもしれないし、私も死んでしまっていたかもしれない。めげなくて本当に良かった。生きているとしんどいことも起こるけれど、でも楽しいことがホントにたーっくさんある。

だから、私の人生をこれまで支えてくれた全ての人たちに本当に改めて感謝したいし、私も世界のどこかで昔の私のような人がいるかもしれないから、何かの役に立ちたい、そうずっと思い続けてきた。

トルコに行った時に改めて「私は何がしたいのか」「YouTuberとして何をしたいのか」ということから派生して、これまで20年ほどがっちり蓋をしてきた自分の心や家族との関係性にも、少しずつ向き合うことをし始めた。


"SHARING THE DOTS" 単方向ではない相互シェア

そうこうしてたどり着いた答え。
それは「私はみんなとシェアがしたいんだ」ということ。

自分の経験
撮影現場や旅先で知り合ったその人の経験
歴史や文化
情報(動画)を受け取ってくれた人が返してくれるレスポンス(コメント)

エンタメを通して、いろんな日々の学びをシェアしたい。
そして、そのシェアは、1方向ではなく、双方、いろんな向きの矢印があっていい。

人にはそれぞれストーリーがある。その人なりの歴史がある。
私はそんな個々のストーリーの一部を知りたい。
その人のストーリーが、SAYULOGを観ている誰かの、何かの役に立つかもしれない。

みんなが少しずついろんなことを知っていけば、この世界はきっともっと距離が縮まって、摩擦も少なくなるかもしれない。

「もうダメだ」と立ち行かなくなってしまったことも、何とかなる方法があるかもしれない。(現に私はそういう情報に何度も助けられてきた。)

私が、あなたが、「できない」と思っていることを、誰かは「できる方法」を知っているかもしれない。

そういう些細な情報のシェアで、誰かが元気になれたり、希望を持てたり、いつか何かのきっかけで昔SAYULOGで観た動画の場所に足を運んでくれたりしたら、この上なく嬉しい。(たぶん泣く!)

みんながちょっとずつ、知らないことをひとつまみずつ、ゆっくりと吸収したり、シェアしていけたりしたら、いまよりもちょっとだけ、素敵な世界になるような気がして。

だから、Steve Jobs の「Connecting the dots」ではなく、
私は「SHARING THE DOTS」なんです。

connecting するのは自分自身じゃなくていい。
情報というひとつひとつの "点 = dot" を share したいし、してほしい。

"SHARING THE DOTS"
It's a small world, when we learn together.
Share, learn, win, and repeat!
Sayuri Yoshida

私が物理的に台湾から日本へ一時帰国したことによって、これまで台湾をベースにしてきた私のことを応援してくれた人たちが離れていくかもしれないことが、ホントはものすごく怖かった。
「もう台湾のことを発信しない」と決めたわけじゃない。台湾も日本もトルコも、そしてその他の国も、いろんなところが繋がるきっかけはもちろん作っていきたい。

これから挑戦したいこと

いまは日本がとにかく大変。
みんな元気がなくて、疲弊してしまって、コロナの状況も経済的にも大変。
母国だもの、何とかしたいよ。
日本って素敵なところ、たくさんあるんだよ。
そんなに捨てたもんじゃないと思うの。

だから、私は今回、何か運命の糸に手繰り寄せられるように、一時帰国をし、母の退院からしばらくは近くでサポートをし、少し落ち着いたら日本を撮影したい、まずは日本人が元気になれるようなコンテンツを発信していきたい、そして、日本を恋しく思ってくれている海外の人たちにも発信したい。そんな思いと決意を胸に、コロナが落ち着いている台湾から日本へ帰国したのだ。

自分の意思や行動力とは別に、何か不思議と物事がトントン進むときは、大抵この「糸に手繰り寄せられている」と思うことにしている。そして、その思いは大抵当たる。

私は、自分の直感を信じている。
直感で感じるご縁や流れというのは、たぶん本当に意味があって私をそういう流れに持っていってくれているのだと思うから。

「SAYULOG」だけでなく、私のこういう思いを動画できちんと伝えたことがなかったので(そして、チャンネルの企画切り替えのタイミングでこの話を触りだけ出そうかどうかは未だに迷っている)、台湾LOVEなSAYULOGファンのみなさまや、視聴者さんたちはきっと怒るのではないか、心配は拭えないけれど、私は新たなコンテンツでも必ずみんなをワクワクさせたり、感動させたりできる!と信じている。
(言霊、信じてるからはっきり「できる!」って言います。Trust me!)

だから、どうかどうか、これからもよろしくお願いします。
やっとやっと、発信したいことが見つかったから。
やっとやっと、自分ができることで、自分がしたいことがわかったから。
これからも応援していただけたら、とってもとっても嬉しいし、ホントはビビリな私としては、みなさまの応援があることが、とっても心強いです。


そういえば、「糸」といえば、中島みゆきさんが「糸」という名曲を歌っている。あの曲は、本当に泣ける。音楽の教科書に載るのも頷ける。

落ち込むこともあるけれど、
人生って、何が起こるかわからないから、こんなにワクワクするし、素敵なんだよね☺︎

人生はカラフルで、豊かな感性で物事に出会える方が、きっとずっとずっと楽しい。そう信じている。

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2021/02/11追記
これまで台湾を中心に活動してきたので、この思いを台湾や香港、その他中国語でSAYULOGを楽しんでくださっていたみなさまに向けて、同様に思いをお伝えしたく、繁体中国語版もご用意しました。


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