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家庭と仕事は「両立」よりも「融合」させたい派です

先週末、映像関係の同人誌の編集会議があった。
私以外の編集委員はみんな30代40代の働き盛り子育て盛りで、ほとんどがみんな小学生以下の小さい子供がいる。日曜日ということもあり、編集委員が子どもたちを連れてきていて、大人6人子供4人が集まるリビングで、賑やかに編集会議をしていた。

この雑誌の編集部員は、ほとんどがフリーランスの映像ディレクターやカメラマンで構成されている。今このご自宅を貸してくれているTさんご夫婦は小さな映像技術会社を経営しているけど、会社の規模としてはフリーランスよりも少し大きい程度だ。
そんなわけで、Tさんご夫婦の経営する会社にも子どもたちが遊びにきていることも多いし、今日だってほかの編集委員の子供さんが来ていた。
「日曜日なので子どもが一緒に来ることになります」とその編集委員の先輩ディレクターは少し申し訳なさそうに言うけど、私はむしろ大歓迎だった。
教育熱心な専業主婦の母のもとで閉鎖的な家庭で育てられた私は、ほかの人が子どもをあやしながら仕事をするのを見るのが好きだ。会議中も、子どもが頭をぶつけて泣いたりゲームをしたりテレビをしていたりと賑やかで、私はそういう空気の中で大人たちが会議をしたりのは個人的に好ましいとさえ思っている。


だけど、普通の企業では、子どもを同伴で働くことが一般的ではないだろう。時々、先進的な企業の取り組みの例として紹介されることがある程度だ。日本社会では、真面目に仕事をすることは、時に人間としての自分を切り離すことに近いと思うことがある。

ご飯を食べる間もなく、睡眠時間を削ってまで仕事をしている人はどの職場にも必ずいる。家族や恋人と過ごしている時間に仕事の電話が入れば、「仕事だから」という一言でその場を立ち去らなければいけないことがある。そして、大事な人は一人残されたまま、何も言えずに淋しい想いとすることになる。

「仕事」ってそんなにエラいのだろうか?
多くの人の場合、やりたくて仕方ないから仕事をするのではなく、生活のために仕事をしなければならないのではないのだろうか。
自分以外に代えの効く仕事がほとんどなのに、自分でなければ一緒にいてあげられない子どもや恋人を置いてまでする仕事というのは、本質的には必要なのだろうか?

コロナ禍で在宅ワークが進み、オンライン会議が増えた。家で仕事をするようになって、「子どもがzoom会議に出演してしまった」とか「子どもがいると仕事にならない」という話をよく聞く。

「子どもがいても普通に在宅ワークできています」なんて話を聞いたことがないから、おそらくその意見は働くママとパパの総意なのだと思う。実際そうなんだろうけど、子どもがいない独身の身では想像することしかできない。

しかし、そんな意見がある一方で、「子どもが会議に出たっていいのではないか」と私は個人的に思っている。子どもをあやしながら会議をすれば右脳が刺激されて普段と違う発想が湧きそうだし、気に入らない同僚の子どもの顔を見たりすると「この人も誰かの大事な人なんだな」と思うと、その人に対する刺々しい感情も丸くなるのではないか。

現代日本社会は「育児・家事」と「仕事」をきっちり分けることによって家庭を成立させていたんだな、と改めて思った。「性分業」=「男性は働き、女性は専業主婦」という家庭モデルは戦後日本から始まった歴史が浅いものであるけど、今でもその家庭モデルのベースを変えることができていない。女性が働き始めれば、大部分の育児は保育園などにアウトソーシングしているため、結果的に「働く人」は仕事に集中するものだという前提に働くことが成立しているように思える。そして、アウトソーシングしきれないもの、そこから零れ落ちた家事・育児などを共働き夫婦で分担するのに精一杯だ。

多くの人は食うために働いているし、子どもがいる人なら子どもを育てるために必死に働いている。それなのに「仕事をするのに子どもの存在が邪魔」であったり「子育てをしようと思えば仕事が邪魔」になったりするのだろうか。

食べていくことと働くこと、子どもを育てることは、そのすべてが人間にとって自然なことで、それらが上手く融合できないのはなぜなんだろうか。

綱渡りのギリギリのスケジュールをこなすように、家庭と仕事を「両立」するよりも、家庭も仕事も自然とそこに「融合」しているような生き方を模索していきたい、と日々奮闘し続ける先輩たちの背中を見て思った。


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