西の魔女が亡くなった つづき
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つづき
父母の一族内における面子を向上させるべく頑張った私は、それなりの大学に入学して、某大手企業の総合職に潜り込んだ。やってのけたんだぜ。ひゅーーー!合格発表のあの日、初めて見た父の涙はいつまでも忘れないだろう。私の結婚式でも決して泣かなかった父だ。
これで解放されると思った。認められると思った。ところがだ。ところが、何も変わらなかったのである。どうやら祖母的価値基準だと、私の打ち出した経歴は別にすんごくなかったらしい。祖母の求めるすんごいアレは、弁護士とか医者とかそういうレベル、東大とかそういうやつ。なので、ふーんアンタ頑張ったね、じゃあ次はすんごい旦那さんを見つけようねって。それだけで終わったのである。ポカーンだよ、ポカーン。
私の旋風は何の革命も引き起こせず立ち消える。もともと天才でもないし、努力もまた足りなかったのだ。
少しずつこの辺りから私は崩れ出した。一体何のために生きているのか。どれだけやっても結局は認められない。自分の能力も足りない。なんて情けない子!子供時代から言われ続けてきた呪いの言葉が私を自己嫌悪の渦へ叩きつけた。痛い。
そうして元々情緒不安定だった精神的な脆さが若さと相まって一気に加速することとなる。本来の自分のやりたいこととか、性格だとかそっちのけにして、親の期待に報いることだけに注力してきたツケがこの辺りで一気に爆発したのだった。こころのなかで祖母を責めた、親を責めた、自分を責めた。会社に行くことが難しくなり、ほどなく心の病気になってしまった。
会社を辞めて実家に帰った私を両親は責めなかった。思い返してみるとありがたい。あなた達のせいだと泣きながら喚いたりもしたから、両親も何か思うところがあったのだろう。ただ、出戻った私を巡って、両親が祖母と喧嘩するようになってしまった。私はそれが大変申し訳なく、情けなく、こんなはずではなかったのにと色んなことを後悔して苦しかったと思う。こんな言い方をするのは、当時のことをそんなに覚えていないから。
このまま実家にいたら腐っていくのが解りきっていた。このままじゃダメだ。こんなのは嫌だ。私はもがいた。
もがきにもがいた末、私は逃げるように上京して再就職した。今度は自分のやりたい仕事だ。住みたい場所だ。もう誰のためでもなく自分の人生を生きようと心に誓った。それを本当に実践できるようになったのは随分後になってからのことだが、それでもあのタイミングで実家を出たのは本当によかったと今では思っている。
心の病気とはその後も数年間付き合ったが、いいカウンセラーさんに出逢えて20代の内にケリをつけることができた。30代に突入する頃にはバツも1つ付いて(この話はまた別の機会に)もはや逆立ちしたってすんばらしい孫にもなれないし、自慢できない娘が完成しており、もうどう思われてもいいやと開き直ることができていた。
東京に来てもう15年になる。西の魔女の呪縛は東にまで届かない。その間色んな人と出会い、書き尽くせないほどの経験を積んだおかげで、自分が囚われていたものは実にくだらないものだったと心から思えるようになった。それは学歴以外の部分で、私も努力してきたから。その自負はある。そして離れてみると、祖母の偉大さを客観的にスゴイと思えるようにもなっていた。
自らも母親になってからは更に帰省しなくなり、最後に祖母に会ったのはいつだろう。祖母の晩年は、自分にも他人にもあまりにも厳しくし過ぎた末路なのか、皆から敬遠され、孫も娘達も会いにこない寂しい老後であった。それでも彼女は、ストイックに健康的な生活と規律正しい習慣を続けて1世紀以上生き続けていた。淡々と。学歴重視は相変わらずのまま。
今、飛行機の中で私はこれを書いている。最後のお別れをしに行くところだ。大変だし別に来なくてもいいよと父母は言った。だがそうもいかない。そんな簡単なことではないのだ。そんな軽い存在でもないのだ。会いに行く。自分のためにも祖母のためにも。私は結局、未だ魔女から逃げたままだから。
眠る祖母の顔を見て自分は何を思うのだろうか。
つづく
かもしれないし、つづかないかもしれない
文章を書くことをどうにかして夢に繋げられたらなと思っているのです。 頑張ります!