他人の「辛い」はきっと3秒で、忘れられる。

ふと友達がこんなことを言った。

「大変な人に、大変だね。かわいそうだね。ってはいうけどそれで終わりだよね。当事者じゃなきゃ、特にそれ以上何も思わないよね。」

こんな言葉を彼女が言ったのは、今年の成人式が中止になったニュースを見たときである。人生に一度しかない成人式という晴れ舞台を二年前に経験した私たちは、正直、このニュースは人ごとでしかなかった。

でも、その彼女の言葉は、なんとなくストンと胸に落ちるものがあった。

ここ最近、友達二人が悩んでいて「鬱っぽい」と相談を受けた。
例外でもなく、私も最近心が落ち着かないわけだが、国試もあるし、あと1ヶ月はとりあえずこのままであろうと覚悟している。

そんな友達の「辛い」に耳を傾けながら、ふとさっきの彼女の言葉を思い出したのである。
私は、そんな相談をされると、数日経ってもなんとなく気がかりで、短文のLINEを送って見たりするのだが、逆の立場であった時、助けを求めれば助けてくれる人はいたが、自分から手を差し伸べてくれる人というのはいなかったように思う。
「周りが冷たい」と言いたいのではなく、助けを求めた時に助けてくれるだけで、とても嬉しいのだが、死にたいほど辛い渦の中にいながら、世界はいつも通り回っているあの居心地の悪さを思い出したのである。


辛くて辛くて仕方がない中でも、友達は笑って生きている。
きっと友達が辛くて仕方がない中にいた時に、私も笑って生きていたと思う。

それは、おかしなことでもなく当たり前のことだが、どうも居心地の悪さを感じる時がある。正確に言えば、前者である時に、居心地が悪いのである。

それは単に私の辛さを分かってくれないというエゴでしかないわけであるが。私だって、相手が何かで泣いていることに気づかず、時には傷つけていることに気づかず、きっと笑っていた時があったのだから。

人の「辛い」なんてそんなものなのだと思う。

だから、今誰かのせいで「辛い」と思っていても、きっと相手はその1mmも気づいていないことが多いってことなんだなぁと。
友達の言葉を借りれば何かで「辛い」と伝えられたとしても、他人の「辛い」なんて正直、共感はできても実感はできないし、ずっと覚えてもいないし。


でも時たま、それが自分のことのように辛くなって声をかけたくなる時がある。それを私は愛だと思っている。相手の痛みを自分の痛みのように感じようとできるなんて愛だと思うのだが。


と、こんなことを今日一日考えていて、ふと、私が24時間悩んでいても、きっと相手は5分も悩んでいないだろうしなぁ、とか思ったり。

でもそれはそれで悲しいから、認めてやんないぞと思ったり。

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