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愛とは何か

愛とは「存在成さしめる力」のことである。
 
氣功とは何かと聞かれると、私は一言でいえば「宇宙の愛」と答えます。
ところで、愛って難しい言葉ですよね。いい言葉なので、とりあえず愛っていえば済む的に使われることもありますし、聞いた瞬間なんか嘘くさいなって思うかたもいるかもしれません。そこで、愛とは何か。愛の定義づけをしてみようと思いました。


魂が物質(肉体)を望んだ。その望みを叶えたのが愛。

私たちの本質は魂です。魂は形を持ちません。魂界は、ワンネスで何の問題もない世界ともいわれています。私たちの苦しみは、全て肉体という物質をもつことから生じているので、肉体さえなければ物質的障害から解放されて、何の問題も生じないからです。
それなのに私たちの魂は肉体をもつことを希求しました。肉体をもつことにより、離が生じ、痛みが生じ、苦しみが生じるのに。何故でしょうか。そこには、それらを凌駕して余りある喜びがあるからでしょう。例えば、他者との交流と理解、それはとても難しいことであるけれど、それを得たときの深い安堵と喜びは大きいです。魂はそれらをしたくて、肉体を欲っして欲して、そしてついに、この三次元世界に存在ならしめたのでしょう。この私たちの魂の切なる願いを、聞き届け成し遂げた力こそが愛の本質なのだと考えました。

愛は私たちを生かす力・方向性

好きだよ。奇麗だね。格好いいね。賢いね。上手だね。ありがとう。こんな言葉や想いを受けると、私たちの心や肉体は元気になります。反対の言葉や想いを受けたっときはどうでしょう。心や肉体が傷ついて、へたをすると死んでしまいます。
肉体の存在を維持する方向性が愛なのです。すなわち、生かす方向性です。
愛があれば、私たちは健やかなのです。氣功は心身を健やかにします。ね、氣功は「宇宙の愛」でしょ!

そこに愛があるかないか

同じことを言ってもしても、受けた側の捉え方や結果が違うことがあります。それは、そこに愛があるかないかの違いなのだと思います。親が子供をしかったとします。それは躾か、はたまた暴力か。受けた側が成長するなど存在を増していけば愛のある躾であり、心や肉体に傷をおうなど存在を脅かされることがあれば愛のない暴力となるでしょう。もし一時的に齟齬があったとしても、長い目で見れば愛がある場合は良い結果になります。
 
このように、愛を感情的に定義づけをすると曖昧になりますが、「存在成さしめる力」と定義すると様々な事象の違いがわかりやすくなります。

愛の結晶 私たちが存在している、すなわち、愛されていること

赤ちゃんのことを愛の結晶と表現することがありますが、これも愛を存在成さしめる力といえば、ぴったりの表現なことがわかると思います。以前、この話をきいた人が「愛の結晶」ってどこか嫌らしい感じがしたが、この話をきいてそう思わなくなったと言った人がいました。かくいう私もそう思っていた一人でした。
また、生まれてきたということは皆愛されているということだとよく言われますが、そう思えない人もいます。そんな人でも、愛が存在成さしめる力とすれば、人間が肉体を持ちえ、この世に生を得たということは、すなわち愛ゆえだから、つまり生まれて存在している=愛されているが、理解できると思います。そう、愛がなければ、そもそも私たちは三次元に存在しないのです。

愛シリーズのおしらせ

愛=存在成さしめるエネルギー いかがでしょう?
愛があると、自分の健康が健やかです。愛が、とてもシンプルでわかりやすくなってきませんか。もちろん、愛が大切なことも。
この視点でみると、様々なことがわかってきました。自分を愛することの大切さ、自分の愛し方。ご先祖さまの愛を受け取ること=物質世界の愛をうけとること。などなどをこれから書いていきます。
 
2024年は、ますます愛の力が生きることの要になると思います。これからの「愛シリーズ」をよろしくお願いします。
(地震があって「中庸の瞑想」から始まりましたが、本当はこの投稿がnoteの書初めの予定でした)


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