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桜散り、梅こぼれ、椿落つ

4月30日から5月4日は七十二候の第十八候「牡丹華(ぼたんのはなさく)」で、その名の通り、大きな牡丹の花が咲き始めるこの時期。連休が終わる頃には芍薬の花も咲き始めます。

日本では美しい女性をなぞらえるときに使われる「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉。その並びにふさわしく気品と華やかさを持つ牡丹の花。

1ヶ月間だけ花屋に勤めていたときがちょうど牡丹と芍薬の花もいよいよ終盤という時期でしたので、よく「牡丹と芍薬って、同じではないのですか?」と尋ねられていました。たしかに花弁だけを見るとほとんど同じですが、葉を見ていただくと「あ、本当だ。違うわね」とすんなり納得されるもの。

牡丹の葉はトゲトゲしとしていて、芍薬の葉は滑らかな曲線を描いています。「美しい花は棘を隠し持っている」とよく言われ、牡丹も例外なくそれに当てはまりますが、やわらかな曲線に包まれ、大きく美しくふわりと花を咲かせる芍薬にもまた、思わず目にとまる和の美麗さを感じるものです。

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花というのはすごく儚いもので、綺麗だと思った翌日、いや、少し目を離した隙に姿を変えてしまっていたりします。満開を迎え、枯れて地に還るその生命の刹那の一生を「儚い」と言い、美しいものだと想うこの感性は、一体どこで磨かれたものなのでしょう。

遠く昔、日本人はその儚さを恋に喩え和歌などを詠んだものでした。その過程で生まれたものなのでしょうか、花が枯れていく様子を表す言葉にはそれぞれの花に合わせた動詞があります。

桜が散る。梅が溢れる。椿が落ちる。牡丹は、崩れる。

どれも「枯れてしまったね」の一言で表せるものにも関わらず、こうして「散る」「溢れる」「落ちる」「崩れる」なんて言葉を充ててしまうような日本語の奥ゆかしさと、その感性を初めに持った先人に、半ば嫉妬に近い感情で恋焦がれてしまいます。ああ、日本語って、なんて雅なのでしょう。

春の風が吹き込み花が舞い、新緑が深まり初夏を迎えるこの季節。同じ日本語の母語話者であろう同郷のあなたに、私は問うてみたいことがあるのです。

桜は散り、梅が溢れ、椿落つ。
牡丹が崩れ、人は---。

人間も花と同様にいつかは地に還ります。一生という名の悠久であり刹那のような、複雑で繊細なヒトの生命の最後を表す動詞はなにになるのでしょう。「死」がひとつの答えとして当てはまることは確かなものの、これでは安直なような気がしてしまうのです。

朝、昼、夜。
昨日、今日、明日。

いつ考えてもこれだという答えが出せずにいるこの感じもまた、人間のらしさであり、繊細で複雑だからこそなのかもしれないな、と思いつつ。希くば、私がこの生を全うするその瞬間には、ああ、これが人間の最期かと腑に落ちる言葉を見つけたい。そうでないと、きっと、死んでも死にきれない。

花はその生命の最期を迎えるとき、地に還るとき、どんな景色を、どんな想いでみているのでしょう。死にゆくその様子を「儚い」だとか「綺麗」だと見つめる人間の姿は、どう映っているのでしょう。

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