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「個性とは何か」で苦しみ続けるところだった
「自分の個性は何なのか」「個性的とは何なのか」
そう考えたことはあるだろうか。
ちなみに私はある。幾度となく。
大学3年生の頃、自分の個性を初めて言語化してみた時に、
「真面目でそれなりに優しくていいやつ」としか言い表せなくて、そう言葉にしてからは、周りにいる個性のある人を見ては日に日に自分が空気のように、透明になっていくのを感じていた。
焦った。自分自身に「個性がない」と感じることに。
それから4年。
ふと気づくと、「個性がない」と思い悩まなくなった。
それは少しづつではあるが
・"個性"とやらが何なのか
・なぜ個性がないと感じ苦しんでいたのか
などが分かってきたからなのだと思う。
だから今こそ、昔の自分へ伝えたい。
個性とはなんだったのかを。
どうして自分が個性がないと苦しんでいたのかを。
そんなお話。
個性はだれにでもある
最初に結論を伝えよう。
「個性は誰にでもある。」
「個性がないことに苦しむのではなく、"個性的でない"ことに苦しむ。」
~fin~
✍️ ✍️ ✍️
「え、個性は誰にでもあるの?」と思ったあなたは、このnoteを読んでみてほしい。
・他者を見て個性がある と思う時
・自分に個性がない と感じて苦しむ時
の状況を理解することから、
少しばかり個性と個性的の違いについて記していこうと思う。
✍️ここまでのまとめ
・個性は誰にでもある
・個性がないことに苦しむのではなく、"個性的でない"ことに苦しむ
他者を見て個性がある と思う時
まず初めに "他者を見て個性がある" と思う時の状態を整理しておこう。
他者を見て個性があると感じる時は、
①誰かの表だった特徴を、漠然とした他者の特徴と比べて
②他者と差がある部分に個性があると感じる
という状態だ。
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![](https://assets.st-note.com/img/1708848634727-Nj0L1NL72d.png?width=800)
パッとイメージしやすいのは、
Aさんは歴史の知識がとてつもなくある だとか、
Bさんはとてもユーモアがあり面白い だとか。
他の人よりも突出した点を持つ人には、
「個性があるね」の言い回しのほかに
「個性的だね」と表現したりもする。
つまるところ、その人の個性が他の誰かと極端に違ったり、突出していることを"個性的"と表現するのだ。
(ちなみに「そういえば最初からChatGPTに聞いてみればいいやん!」と思い、「個性的とは何か」を聞いた回答が以下。)
個性的」は、普通とは異なり、他とは異なる独自の特徴やスタイルを指します。他と比較して独創的であり、個人の特有のアプローチや表現方法を示します。例えば、他の人とは異なるファッションセンスや独自の趣味、考え方などがある場合、それはその人が個性的であると言えます。
このことからも、一般的に"個性的"という言葉は
・比較対象がある時に
・他者に対して
使う言葉となる。
プラスして、上の図を作って気付いたプチ共有としては
「他人の個性は表だった部分(自分が知っている部分)でしか定義できない」ということだ。
✍️ここまでのまとめ
・個性的とは、誰かの個性が他の誰かと極端に違ったり、突出した状態のこと
・"個性的"という言葉は、他者に対して使う言葉
・他人の個性は表だった部分(自分が知っている部分)でしか定義できない
自分に個性がない と感じて苦しむ時
個性と個性的の違いを把握するためにもう一つ、
"自分に個性がない と感じて苦しむ時" の状態を整理しておく。
"自分に個性がない と感じて苦しむ時"は、他人から「個性がないね」と言われるとか、自分自身が自分に対してそう思う時でよく起こりそうだが、
他人から「個性がないね」と言われる時は稀であるし、
相手の基準によっていかようにも個性があるの基準が変化するので割愛。
自分自身が自分に対して自分に個性がなく苦しむ時は、以下の図のように
①自分自身で自分の個性が何かをよくわからない状態で
②他の人の個性と自分自身を比べて
③他の人の方が個性がある(=自分には個性がない)ことが苦しいと思う
ことで起こると考えられる。
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✍️ここまでのまとめ
・自分に個性がない と感じて苦しむ時は、
①自分自身で自分の個性が何かをよくわからない状態で
②他の人の個性と自分自身を比べて
③他の人の方が個性がある(=自分には個性がない)ことが苦しいと思う
ことで起こる
では、そもそも個性とは何なのか
2つのケースから個性、個性的について考えを深めてきたが、一旦ここで「個性」という言葉を定義しておこう。
「個性とは何か教えて」とchatGPTに問うと、以下の回答を返してくれた。
個性は、個々の人や物事が持つ独自で特徴的な性格や特性のことを指します。これは、外見や行動、考え方、感情、価値観など、さまざまな側面に関連しています。
と出てくるので、つまるところ個性とは "個々人の特性のこと" であるし、よく「個性がない」と言うが、誰にでも個性はあるのだ。
ではなぜ自分が個性がないと思い苦しんでいたのかを、再度考えていこう。
個性のことで苦しんだ理由1️⃣:個性を自分で定義していなかったから
自分の個性を自分で定義している場合には苦しみは起こらない。
自分の個性が他人を介した定義になっていたり、他者によって個性を定義されているから苦しむのだ。
以下のように、個性(アイデンティティ)を他者を介在させずに自分自身だけで自分を決定しているときは、他人の状況や基準などあらゆる状況に左右されないため、個性を見失うこともない。
例) 空を見ることが好きだ 自然が好きだ 感受性が豊かだ 1つの物事を深く思考し、気づきや結論を出すことが好きだ 旅行が好きだ 責任感が強い etc…
一方、自分の個性を地位・ステータスなど自分以外の状況(=他人を介して)によって決定すると、そのステータス以上の人が現れた時に個性がなくなったように思えるし、他者から個性を定義されるとそもそも表だった部分でしか定義されないし、その人の基準によって個性が定義されるので、自分の思う理想とずれることがある。
例) 自分は大企業に勤めていて世間的に見ると優秀である
→ 自分より優秀な人ばかりいる環境だと、他者と比較することで優秀だという個性がなくなる(ように思える)
つまり、本来個性とは「他者を介さず、自分自身だけで自分の特性に気づき、決定していくもの」である、ということを理解して実践することが有効だと言える。
個性のことで苦しんだ理由2️⃣:
個性的だと他者から思われることを心のどこかで望んでいたから
過去の自身を見ていると、「個性的な人、羨ましいなあ」という感情の裏には「周りから個性的だと見られたい」という願望が入っていたように思う。
ただ、周りから個性的であると見られるかどうかは、他者が持つ"個性的であることの基準"によって左右してしまい、そもそもコントロールできないものなので、その考えや願望は潔く捨てられると良いのかな、と今では思う。
✍️ ✍️ ✍️
とはいえ、自分自身で自分の個性を定義するために客観視すること限界もあると感じるので、時には他者と話すことで気づきを得て、個性をアップデートしていくと良いのだと思う。
また、自分自身のみで自分の個性を決定するやり方の詳細は、宇宙飛行士の野口聡一さんのエッセイ「どう生きるかつらかった時の話をしよう」に書いてあるので、気になる方はぜひ読んでみてほしい。
✍️ここまでのまとめ
・個性とは他者を介さず、自分自身だけで自分の特性に気づき、決定していくもの
・周りから個性的であると見られるかどうかは自分でコントロールできない
異常 とは共有する前提を覆した状態のこと
ここまでは"個性がない"という側面から、個性の性質を深ぼってきた。
最後に、"個性がない"の対極に位置する、個性的を通り越した先の"異常(個性的すぎる)"と「個性的」の違いについて、これを考えるきっかけとなった2つの本とともに考えていく。
その本はどちらも村田沙耶香さんの本で、1つが「コンビニ人間」、もう1つが「地球星人」だ。
「コンビニ人間」は、周囲よりも自分が変わりすぎているがあまり、自分の個性を消して世の中に溶け込む用の個性を探す主人公にスポットライトが当たった作品。
「地球星人」は、ただ目的もなく、子孫繁栄という動物的な側面のために人間は生き続けなければならない人間社会の状態を「人間工場」と表し、この人間工場から逸脱した世界で生きていこうとする3人(主人公とその仲間たち)を描いた作品だ。
この2つの作品のどちらも、主人公が周囲よりも変わりすぎている(=個性的すぎる)点に焦点が当たっていて、「地球星人」のクライマックスでは、私たちが生きる人間社会、通称"人間工場"から抜け出した主人公と仲間2人が山に籠り、自給自足を目指して自分の指や体を食べ、生きているのか死んでいるのかわからない人間とは程遠い姿で人間社会に住むレスキュー隊の人に発見されるのだが、この姿は個性があるという状態を通り越して明らかに"異常"だ。
この、"個性的"と"異常"の境目はどこなのか。
個人的には、無意識的に自分達が生きていく上で浸透している共通の考えを共有できているか、によって"個性的"と"異常"の境目が生まれるのではないかと感じている。
「地球星人」の、主人公が自分達の指や足といった体を最終的には食べるシーン。これは人間から見たら異常だと思える。
なぜなら、人間として生きていく暗黙のルールに、「指や足といった体を食べてはいけない」という前提、共通の考え方があるからだ。
一方、主人公がイカだとしたら。
「痛々しいな」と感じるかもしれないが、"異常"とまでは思わないかもしれない。
つまり、私たちが共有する前提を覆した時に個性的の枠を超えて異常だと、感じられるのだと思う。また、同じ前提を共有することで初めて同じ生き物として生きられるのではないかと思う。
とはいえ近年、終身雇用が崩壊して転職が当たり前になったり、LGBTQという言葉が当たり前に使われるようになったりと、私たちが共有する前提は日々刻々と変化しているのも事実だ。
だから、誰かからすると想像すると気が遠くなることかもしれないが、今は"異常"だと思われている人々が世の中の前提を変えていくことにより、いつかはそれが"個性的"に変わっていくのだと思う。
また、個性的だと言われる人たちの集団が多ければ多いほど、社会が多様な集団がある状態、すなわち多様性という状態になっていく。
各々の多様性を認め合うには、まずは自分たちが何かしらの前提を共有する集団に属していることを理解し、自分たちが今まで前提としていたものが覆ったとしても、自分がまずはそれを批判しない状態が必要だと思うのだ。
とはいえ、自分が前提としていたものと相手の前提が180度も、360度も違う時には、おそらく理解できないと思うことも中にはあると思うので、真に多様性を認めていく/受容することは、つくづく難しいのではないかとも思ったりする。
✍️ここまでのまとめ
・私たちが共有する前提を覆した時、個性的から異常に変わる
・自分たちが持つ前提が変わると、異常が個性に変わることがある
さいごに
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
積読の1つであった、野口聡一さんのエッセイ「どう生きるかつらかった時の話をしよう」を本屋さんで手に取った時に、初めて自分が望んでいた個性の扱い方を理解できた気がして、個性についての考えを整理しようと思い、今回筆を取ってみました。
また、たまたま村田沙耶香さんの本をいくつか読んでいる期間と重なり、自身があまり考えたこともなかった"異常さ"と、個性の繋がる部分があると思ったので、そこも整理しています。
本当はnoteに綺麗にまとめたかったのですが、個人的には自分が知らなかった/理解してこなかった考え方や価値観との付き合い方はまだ分かっておらず、距離感の掴み方やそもそものスタンスについて修行中のため、最後の章は頭の中を一回出して並べてみた、という形になりました。
自分と違う人の、違う部分をポジティブに面白がる力、今の時点で考えが理解できなかったとしても理解できない部分もまるっと受容できる力を身につけていきたいと思う、今日この頃です。
![](https://assets.st-note.com/img/1708870741854-ngEnESyWki.jpg?width=800)
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