一声十両

かつて『週刊小説』という雑誌に書いていた連作シリーズ【相撲おもしろ物語】。単行本未収録なので、いくつかここにUPしています。

ところで、この小説には「白翔王」というシコ名が出てきます。私が考えた架空のシコ名です。
現実の相撲界で、力士名に「翔」の字が増えたのは2000年代に入ってから。のちに大横綱になる白鵬翔も2001年から。この小説が書かれた1994年時点で「白翔王」というシコ名は、なかなかいい線をいってるんじゃないかと思っています。

「一声十両」【週刊小説 1994年10月28日号】

   1

ごま塩の頭は多少ぼさぼさになっているものの、ちゃんと整えた時期があったろうことはわかる。ところがそれとは反対に、頬から顎にかけての不精髭の方はなんともみっともなく伸びている。そういう爺さんだ。
年は、いくつなんだろうな。七十ぐらいかという気がするんだが、歩き方がふらふらしてるのを見ると、もっと上にも見える。もっとも爺さんはいつも体から酒の匂いをさせているからね。ふらふら歩いてるのは、そのせいかもしれない。

貧相な体で、おそらく一回も洗濯なんてしたことがないだろうだぶだぶの洋服を着たその爺さんが、入口を入って行く。入口といったって傾きかけた木造アパートとか、店の看板の蛍光灯が切れかけて不規則な点減をくり返してる場末の歓み屋、とかじゃない。それだったら何の違和感もない。
ところが、爺さんが入って行くのは威風堂々とした両国・国技館なんだ。国技館の入口を、ふらふらと入って行く。入場券も見せずにだ。

言っとくが、本場所中だぜ。懐かしい駄菓子みたいな色使いの幟が何十本も風にはためいて、この町の空気を華やいだものにしている。まだ午後早い時間だから、土俵じゃ幕下の取組だけどね。それでももちろん、客はぽつぽつと入場してきてる。
そんな中で、どう見たってつまみ出されそうな風体の男が、平気な顔で入って行くんだ。いつも必要以上に無愛想な(必要以下と言うべきなのか?)チケットもぎりも、なんにも言わずに見すごしている。
「ちょっとォ、あのお爺さん……!」
と、おれの横ですっとん狂な声があがったのも当然と言える。
「……いいの? 勝手に入って行っちゃったわよ」

彼女は言葉の後半を、おれに向かって言った。
「ええっ? なんだって」
おれは同行のカメラマンと雑談をしてたんだが、彼女の声に驚いて振り向いた。
振り向いたのはおれだけじゃなかったけどね。甲高い声に、入場しかけてた客の何人かが足をとめて、こっちを見ていたよ。そんな中でも眉ひとつ動かさない、相変わらず無愛想なチケツトもぎりはたいしたもんだ――とおれは関係のないことで感心してしまったけど。
「誰が、どうしたっていうんだ」
「あの人よ」
彼女の視線の先を追った。爺さんはすでにふらふらと、館内に入ろうとしている。
「なんだ。大騒ぎするから何がおこったかと思ったじゃないか。あの爺さんならいいんだ」
「どうして? 相撲協会の関係者なの?」
「関係者じゃないが……」
「じゃ、元お相撲さん?」
「あんな貧弱な体の元相撲取りはいないぜ」
「それじゃ、誰なの?」

「そうあらたまって訊かれると説明に困るな。えぇと……、どう言ったらいいかなあ……あんたはふだんシャレた洋服屋とか、おいしいケーキの店ばっかり取材してるから知らないだろうが……」
この女は、そういった女性雑誌の記者なんだ。ここのところの相撲ブームのおかげで、こういう場違いな取材もやって来るようになった。が、もろん、彼女は相撲にっいて詳しいわけじゃない。そこで、知り合いのカメラマンを通じておれの所へ話があってね、相撲雑誌の記者としてちょっと手助けをしてやってくれ、というわけなんだ。

むろんおれだって本場所中は忙しい。だけど若い女の相手を断るのは、全勝の横綱同士の優勝決定戦の時だけ――と決めているんでね。
「……あれは、十両じいさんなんだ」
「十両じいさん?」
この世界の一部じゃひそかに〈一声十両のじいさん〉と呼ばれている。この不思議なじいさんについては、あんたもあんまり知らないんじゃないかな。そこで、ここでついでに話しておこうと思うわけなんだ。

   2

今から十年ちょっと前になるかな。国技館がまだ蔵前にあった頃だ。当時、大串山という相撲取りがいた。
いや、いいんだ。あんたが知らないのは当り前だ。なにしろ一人前の関取りじやない。幕下の中ほどから下位のあたりをウロチョロしてる若い取的だったからね。

この大串山の兄弟子の大角島(おおつのしま)が、おれに声をかけてきたんだ。
「おぅ。あんたに探してもらいたい人がいるんだ」
大角島はちゃんとした関取だ。と言っても長年十両の下位をあたためている、まぁこう言っちゃ悪いがパッとしない古参力士だけどね。それでも一人前の十両になったんだからたいしたもんだ。

大角島はおれを連れて部屋から抜け出し、大川の川っぺりの公園に出た。途中、アイスクリームを買っておれに渡してくれたのを覚えているから、ありゃあ夏だったんだな。
「ウチの部屋の大串山な、あんた、あいつをどう思う?」
と、大角島はアイスをぺろぺろ舐めながら訊いてきたんだ。 
「どう思うって?」 
「出世すると思うかってことだよ」
「さぁ……それは本人の努力しだいだし……。素質はいいものを持ってると思いますよ。まだ若いから、そのう……これからいくらでも上を狙えるんじゃないかと……」
「甘いな」
「え?」 
アイスクリームをたった三くちほどで平らげた直後に大角島が言ったので、「甘い」というのはおれの言葉についてなのかアイスについてなのか、一瞬の間わからなかったよ。

「大串山は出世できない。たしかにあいつはいい体を持ってる。だが、あいつにゃ相撲取りとして大事なものが欠けてる」
「なんです、そりゃ?」
「あんた、稽古場であいつがなんて呼ばれてるか知ってるだろ」
大串山はひょろりと背が高い男だった。でも筋力はあるんだな。足腰もかなりいい。だけどちっとも上位にあがれないのは、気が小さいせいなんだ。なんだかいつも自信がなくて、びくびくおどおどしてる。それで、仲間うちじゃ“小串山”なんて呼ばれてたんだ。
「あんなに気が弱くっちゃ、この世界は無理よ。相撲は闘争心だ。オレなんか、闘争心だけでここまで上ってきたようなもんだ。あははは……」

もちろん大角島はジョークのつもりでそう言ったんだろうがね。ところが彼の相撲ときたら、本当に闘争心だけなんだ。隣で一緒に笑ってたおれは、笑顔がこわばってるんじゃないかとちょっと気になったもんだ。
「あいつは今、怪我をしている。かなり気分的に落ちこんでいる。それを見てウチの親方も、そろそろ潮時かと思ってるらしいんだ」
「廃業ですか?」
「まったくよォ、親方は人の気持ちも知らないで……。まだ、辞めるにゃ早いんだ。あと二年、いや、せめてあと一年は続けてくれなきゃ」

こいつはいい話だ、とおれは思ったね。失意の弟弟子をはげまして上位に引きあげる兄弟子――この世界ならではの美談ってやつだ。欲を言えば大角島がもうちょっと有名な力士だったらよかったけど。まぁ、そんなにぜいたくは言うまい。これで来月号にちょっとした記事を書けるな、とおれは内心喜んだよ。
「そこで、あんたに探してきてもらいたい人がいるんだ」
「誰をです? 大串山の生き別れの母親でも見つけてきて、励ましてもらいますか」
「あいつ、そういう境遇だったのか?」
「いえ。もしそうだったら記事がより感動的になるだろうなど思って」
「記事? なんのことだ」
「気にしないで下さい。で、誰を探すんです」
「十両じいさんをだ」

   3

〈一声十両のじいさん〉がいったい何歳なのか、いつからそんなふうに呼ばれるようになったのか、誰も知らない。だけど、その名前の由来は、この世界の者ならみんな知ってるよ。
じいさんは相撲好きで、東京で本場所がある時は必ず観に来る。といっても、一場所でせいぜい一回か二回。しかも一番安い入場券を買って来る。
じいさんが国技館に現われるのはたいてい昼頃だ。相撲好きってのはだいたいそうだが、幕下や三段目あたりの力士を見てこれから出世しそうなのに目をつけるのが楽しいという。じいさんもそのクチだろうと思って見てみると、少し違うんだな。

昼間っから酒の匂いをプンプンさせて、汚い恰好でやって来たじいさんは、濁った目つきで土俵をぼんやり見てる。東が勝とうと西が勝とうと、たいして面白くもなさそうにただぼう―っと眺めてるんだね。ひどい時にゃ途中でごろんと横になって、寝てしまうこともある。ひょっとして相撲なんて嫌いなんじゃないか、と思うんだ。
そんなじいさんだが、たまに土俵に声援を送ることがあるんだ。まだ下位の取組だから、館内は客が少なくてがらんとしている。そこへ突然、力士名を叫ぶじいさんの意外に野太い声が響く。すると不思議なことに、声をかけられた力士はのちに必ず十両以上に出世する――というんだよ。

知っての通り、相撲取りというのは十両になってはじめて一人前だ。のちに横綱、大関にまでなつた力士でも、たいてい「十両になれた時が一番嬉しかった」と答えてるほどだからね。
その十両になれる素質かどうかを、じいさんは一目で見抜く。まだ海のものとも山のものともわからない若者の中からだ。(もっとも、彼らの半分以上は「海」か「山」の名前がついてるんだけどね)
それでつまり、一声千両ならぬ〈一声十両のじいさん〉と呼ばれるようになった、というわけなんだ。

なんといってもこの頃、破竹の勢いで横綱に駆け昇っていたあの千代の富士が、まだ大秋元と名乗っていた序ノロ時代に声をかけられていた、ともっぱらの評判だった。
その他に、のちのあの大関が三段目時代に……とか、のちの名力士が幕下で低迷してた時に‥…と、噂にはこと欠かない。まあ、本当の話、出世したあとからついでに噂の仲間入りをしている関取も、結構いるとは思うけどね。
だってそうじゃないか。噂を正直に信じたら、千代の富士をはじめとして北の湖、大鵬、栃・若、ついにはあの双葉山まで、無名時代にじいさんが声をかけたってことになってる。
それじゃいくらなんでも、じいさんの年齢が合わないってもんだよ。

「あのじいさんが『大串山ー―っ』って叫んだらどうなると思う?」
と大角島がおれに言ったんだ。
「これは十両まで出世するぞ、と思うはずだろ。本人はもちろん、なによりもウチの親方がそう思う。で、今は成績(ほし)が悪いが、まぁもう一、二年は様子を見てみよう――ということになる」
「それでおれに十両じいさんを探してくれ、と? 」
「そうだ。みんなあのじいさんの不思議な力のことは知ってるが、いったいじいさんがどこに住んでて何をやってる人なのかは知らない。そこであんたに探し出してもらい、みんなに内緒で大串山の件を頼んじゃもらえないか、ということなんだよ」

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