低迷の真相
かつて『週刊小説』という雑誌に書いていた連作シリーズ【相撲おもしろ物語】。単行本未収録なので、順にUPしています。
「低迷の真相」【週刊小説 1995年8月4日号】
1
名古屋場所の時に、おれがよく行く店がある。なに、たいして立派な店じゃないんだけどね。言ってみりゃ、居酒屋だ。名物の手羽先がうまくて、値段も安いときている。おれみたいに安い給料で働かされてる相撲雑誌の記者でも、ちょくちょく行ける店ってわけだ。
「おやじさん、悪いが、領収書を二つに分けてくれないか」
と、おれはその日、店を出ようっていう時に頼んだ。
いくら安い店っていったって、大の男が二人で行きゃ、けっこうな金額にはなる。ましてや、おれの相手は元相撲取りなんだからね。もうとっくに現役じゃないとはいえ、飲み喰いの量はやっぱり普通じゃないよ。
「この不景気続きで、ウチの会社もみみっちくなっちまってね」
と、おれは照れ隠しみたいに言う。
「ちょっと高い金額の領収書を出すと文句を言われるんだ。金額を半分に分けて、二枚にしてそうーっと出しゃ、通るんだけどね」
事実、これは照れ隠し以外の何物でもない。
もっとも、どこの会社でもそんなことはやっているようで、店のおやじは慣れたもんさ。さっさと領収書を書きはじめる。書きながら、こっちの話題に合わせて、こんなことを言う。
「まったく、この不景気ってやつは、 一体いつまで続くんですかね。新聞を見りゃ、やれ円高だ、土地暴落だ、株価下落だ……と気分の減入ることしか書いちゃいない」
おれもいつも不思議に思ってるんだけどね。例のバブル景気の時に、何かおいしいメにあったという記憶がないんだ。
「あの時はいいメを見たんだから、今度は不景気でつらいメにあうのはしょうがない」っていうのが、経済学者や政治家の言い分だ。だけどおれは、「ちよっと待ってくれよ」と言いたいね。
おれたちみたいに社会の下の方でうろうろしてる人間にゃ、バブル景気だからって特別にいいことはなかった気がする。ところがどうだい。不景気となったら、てきめんに影響がある。こいつはちょっと不公平なんじゃないかねぇ。
まあ、そんなふうなグチを言いながら領収書を書いているおやじに、おれの連れがこう答えるんだ。
「こんな不景気な世の中にしてしまって、すまんな」
断っとくが、おれの連れというのはこの国の首相じゃないぜ。日銀総裁でもない。といって大蔵省の次官でもなく、通産省の役人でもなく、経済企画庁の……ええと、よくはわからないが、そういった立場の人間じゃないんだ。
元相撲取りの、今は木屋川(きやがわ)親方だ。親方がどうしてこんなふうに謝るのかっていうとね……あんたにも教えてやるよ。
2
この話は、高田馬場あたりにある質屋から始まるんだ。どうして高田馬場かっていうと、そこが相撲関係者の多い両国界隈から離れているからという、ただそれだけの理由なんだけどね。
平成になって最初の年の暮で、世間はバブル景気ってやつに浮かれてる時だった。そんな景気のいい時に、灯油ストーブの匂いのする質屋に来ているのが、木屋川親方というわけだ。
木屋川部屋。――と言ったって、あんたは、
「そんな部屋があるのかい?」
と言うかもしれないね。
そりゃあ、今、日の出の勢いの二子山部屋や、伝統の出羽海部屋なんかに比べりゃ、まるっきり有名じゃない。しかし、今じゃ相撲部屋も五十近くに増えちまったからね。正直言って、おれたち相撲雑誌の記者でも時々ド忘れする部屋がある。そういった小部屋の一つではあるんだ。
で、木屋川親方がその質屋へ持ち込んだ品っていうのが化粧廻しだ。化粧廻しっていうのは、ふつうの廻しの上に、なんだか分厚いエプロンみたいなのをつけてると思ってる人もいるようだけどね。そうじゃないんだ。あれは長い廻しの端が特別に、あんなふうな絵柄になっているんだよ。
もちろん博多織か西陣織の手織りで、凝ったデザインに金糸銀糸が贅沢に織り込んである。裏は金襴だ。それだけでも、軽く百万はするね。
ところが、相撲取りに化粧廻しでも贈ろうというタニマチは派手好きだからね。なんとかしてもっと目立たせようとする。そこで最近じゃ、色々な宝石をはめ込んだりする。有名な、千代の富士の化粧廻しにはダイヤがはめ込まれていたからね。時価一億とも一億五千万とも言われていたよ。
しかしねぇ、いくら廻しは力士の正装と言ったって、しょせんあれは褌、下着だろ。言ってみりゃ、パンツにダイヤを縫いつけてるようなもんだ。そんなものを競い合ってるタニマチっていうのも、妙なもんだと思うがね。
もっとも、おれに時価一億のパンツを贈ろうという人物がいりゃ、おれは喜んでそれをいただくけどね……。
木屋川親方が持ち込んだのは、現役時代の自分の物だ。親方のかつてのシコ名は長門海(ながとうみ)といったんだがね、その名にふさわしく荒々しい波頭を織り込んだなかなか見事な化粧廻しだったよ。宝石はちりばめてないけど、それでも数百万はしそうな品だ。
ところが、この品を見せると質屋の親父はそれを持って奥へ引込んだまま、なかなか出てこない。
なんといっても相撲の化粧廻しだからね。右から左へ簡単に流れるような品物じゃない。ほら、よくデパートなんかでやる「質流れ品大バーゲン」なんていう催しがあるじゃないか。ああいう所に化粧廻しが出てるのなんか、見たことないだろ。それに、もしも万が一そんな物があったとしても、
「あ、よかった。ちようどこういうのが欲しかったんだ」
と言って買う奴がいるとも思えない。
つまりこれは、必ず請け戻しに来るからその間、現金を貸してくれ――という、確かな品なんだ。なのに、質屋の親父はいつまでも引込んだまま出てこない。
(一体何をやってるんだ。あの親父、ひょっとして廻しをしめて、記念のシコでも踏んでるんじゃないのか?)
……なんて木屋川親方が不安になった頃、ようやく親父が出てきたんだ。しかし、 一人じゃない。隣りにもう一人の男がいたんだよ。
「親方、水臭いじゃないか」
と、そのもう一人の男が言った。
「……会長さん」
木屋川親方はひどく驚くハメになる。
というのも、その男は木屋川部屋の後援会会長なんだ。たしか建設業だとか、不動産業だとか、なにかそういつた会社をいくつか経営している。相撲取り顔負けに背が高く(事実、二人並ぶと木屋川親方より高かった)、頭はツルツルに禿げていた。
「会長さんが、どうしてこんな所に!?」
「そりゃあこっちの科白だ。あんたこそ、どうしてこんな所に?」
二人の男に、あからさまに“こんな所”と言われて、質屋の親父はあんまりいい気分にはならないと思うんだけどね。
それでも、手柄はこの親父だ。商売柄たいていの物には慣れているが、このとんでもない質草には驚いて、ひよっとしたら盗品じゃないかと連絡をとった。電話で問い合わせを受けた後援会会長は、
「私が行くまで、その客をひきとめておいてくれ」
と頼んだわけだよ。
「親方、金に困ってるのなら、どうして一言私に相談してくれんのです?」
「いや、そうじゃないんだ。実は、これは、ウチの大和海(やまとうみ)を勝たせるためなんだ」
3
木屋川部屋の部屋頭は、幕内の大和海っていうんだ。(まったく師弟そろって“長門”だ“大和”だと、音の海軍じゃあるまいし……)
あんたは、たぶん覚えてないだろうな。最高位はたしか前頭の二、三枚目あたりだったよ。上背はそこそこ、体重もそこそこ。右でも左でもいける、なまくら四ツというやつでね。といって突張りがあるわけじゃないし、前褌(まえみつ)を取って食い下がるというタイプでもない。要するに、これといった特長もなく、なんとも印象の薄い相撲取りだったね。
土俵上じゃそんな大和海だけど、実は支度部屋だと一つだけ印象に残ることがあるんだ。出番を持っている力士が支度部屋で何をしてるかっていうとね、実は何もしてないんだ。たいていはまわりの連中と雑談をしていたり、ゴロ寝をしていたり、TVの取組みを見たりしている。そんな中で、大和海はいつも新聞を見ていたんだ。
なぁに、新聞や雑誌を見る力士っていうのも、そんなに珍しいわけじゃない。本番前に気分をリラックスさせるには、それもいいだろうからね。ところが大和海の場合は違うんだ。リラックスどころか、くいいるように新聞を見る。しかも、なんだか難しいことばかり書いてある一般紙の、そのうえ経済欄なんか見てるんだぜ。
おれはいっぺん、大和海にきいてみたんだ。
「大和関、株をやってるんですか?」
「なんだって?」
「いや。いつも難しそうな顔で経済欄を見てるんでね、ひょっとしたら株式でもやってるのかなと思って」
「やってないよ。俺にはそんな金はない」
幕内力士だからね。金がないってことはないと思うんだが、まあ株をやってないというのは本当に違いない。売り買いに神経をすり減らしてちゃ、かんじんの相撲の方に集中できないというものだ。
「だけど大和関、土俵に上がる前にいつも新聞を見てますよね」
「あぁ。実はな、これはあんたにだけ教えることだが……」
と大和海はおれの耳元に小声で言ったんだよ。
「たしかに俺は、土俵に上がる前に新聞の株式欄を見てるんだ。というのも、実はある時偶然に見つけたんだが、この記事が気になってるんだよ」
小さな活字がびっしりと並んだ株式欄の中ほどを、大和海は指で示した。
「ほら、ここだよ。見な」
そんなことをされてもね。なにしろ相撲取りの指だ。本人は一点を示してるつもりだろうが、その指は普通の人間の二倍は太いからね。小さな活字の、いったいどこを示して「ここだ」と言ってるのかわかりゃしないんだ。
それでもようやく目をこらして、おれは関取りの言ってることがわかったよ。そこには、こんな文字が並んでたんだ。
“大和海”
「こりゃ驚いた。関取りと同じ名前ですね」
「そうなんだ」
と、人間の方の大和海は嬉しそうに言う。
「何の会社だか知らんが、自分と同じ名前の株が上がってると気分がいいじゃないか。〔△1〕とか〔△5〕とか、 一円でも五円でもいい。上がってるのを見ると、なんだかこっちにも運が向いてきてるように思える。〔△10〕なんて十円も上がってみな、こりゃ今日は絶対に勝てるぞっていう気分になるんだよ」
勝負師ってのはだいたいみんなジンクスを持っていたりゲンをかついだりするけど、もちろん相撲取りもそうだ。たまたま廻り道をして場所入りした日に苦手な相手に勝てたからって、その後も毎日わざわざ廻り道をするとか。ヒゲをのばしてると勝ち続けてるからその後もずっと無精ヒゲのまま土俵に上がり続けたとか。そんなのはザラだね。
千代の富士なんか、以前に、ツキを落とさないようにと場所中ずっと髪を洗わないでいたことがある。それで見事、優勝までしちまった。もっとも、おれが思うに、それはゲンのおかげなのか、それとも四ツに組んだ時に相手が千代の富士の何日も洗ってない髪の臭いにクラクラときたせいなのか、わからないけどね。
変わったところじゃ、かつての大関・若羽黒がいる。ある日、支度部屋で、寝ている大田山の足の裏をコチョコチョとくすぐったら、その日は会心の相撲が取れた。で、ゲンをかついでね。次の日から毎日、土僕に上がる前には大田山の足の裏をコチョコチョ……さ。まったく、土俵上じゃ真面目な顔をしている勝負師が、他人の足をくすぐってるとはね……。
そういうのと同じさ。たまたま自分と同じ名前の株式銘柄(それが「大和海上火災」の略なのか、それとも「大和海運」の略なのか、あるいは「大阪和銅海上」の略なのか……そんなことはまるで知らないが)を発見した大和海は、それでゲンかつぎをしてたってわけなんだよ。
4
「なるほど。そうだったのか」
おれがその話を、師匠の木屋川親方にすると、親方は大きくうなずく。
「前からあいつの相撲にはどうもムラっ気があると思ってた。大和海の低迷の真相は、それだったんだな」
それを聞いて、親方ってのは有難いもんだなと思ったよ。だっておれには、大和海が“低迷”しているとは思えなかったからね。これといった特長のない力士としては、あんなところが関の山だろうと思っていたんだよ。ところが親方は、まだ上に行けると思ってたんだね。有難いもんだ。
「それでおれは、ちょっと調べてみたんですがね」
と、ゆうべ一晩かかって作りあげた表を見せた。それは、新聞をひっくり返して、これまでの“大和海”という銘柄の株式の上下と、人間の方の“大和海”の勝負とを比べてみたんだ。
知っての通り、株式市場ってのは前場 (午前九時~十一時半)と後場(十二時半~十五時)に分かれてる。だから新聞に載るのは、夕刊がその日の前場終値、朝刊が前の日の一日の終値だ。大和海は、上俵に上がる時間のせいで夕刊を見ることはできないからね。いつも朝刊の株式欄を見ている。つまり、前の日の株式結果と、その日の相撲の結果を比べたというわけさ。
「面白いですよ、親方。株が上がった時にはたとえ相手が三役クラスでもちゃんと勝ってる。反対に、株価がひどく下がった時には、なんでもない下位の力士にも取りこぼしをしてるんです。大和海関は、わりと神経質で影響されやすいタチですからね。こりゃあかなり株式欄に左右されてますよ」
木屋川親方は、おれが作ったその表をしばらくじいっと見ている。
「あんた、これを記事にするつもりかい」
「ええ。次のウチの雑誌に“力士のジンクス特集”というベージを予定してるんでね。ちょうどそこに使えるんです」
「すまんが、それはちょっと待ってくれんか」
ここで親方はわざわざおれの手を握って、芝居がかって言うんだ。
「たしかにあんたの言うように、あいつは神経質で影響されやすい性格だ。そのために、今もってあんな位置で低迷している」
おれは前半の方にはうなずけたが、後半の方にはうなずけなかった。
「だから、あいつにとってのジンクスを、うまく利用してやろうと思うんだ」
「それはどういう意味です?」
「買うんだよ、その“大和海”っていう会社の株を。本場所中に、その株がどんどん上がっていれば、あいつも気をよくして勝負にのぞめるってものだろうからな」
あとで聞いた話じゃ、その翌日、木屋川親方は札束を持って証券会社に行ったらしい。で、いきなり窓口の女の子に言った。
「大和海を買いたい」
「は?」
「大和海だよ。大和海の株だ」
「ヤマトウミ……ですか?」
「そうだ」
そりゃあたしかに株式欄には“大和海”と書いてあるけどね。それが何か長ったらしい会社名の略称だとは気が付かなかったというわけさ。窓口の女の子と、しばらくトンチンカンなやりとりがあったあと、ようやく株を買うことができたんだ。
親方にとって幸運だったのは“大和海”という銘柄が「小型株」だったことだね。たとえば新日鉄みたいに資本金が何百億円にもなる「大型株」だと、たとえ十万株買っても株価はたやすく動かない。ところが資本金が少ない会社だと、一万株ていどでも簡単に株価が上下するんだね。つまつ、数百万円でいいってわけだ。
親方が買ったその翌日、株式欄の“大和海”は、
〔△10〕
となった。つまり十円高さ。
それが載ってる新聞を見て、大和海 (こっちは力士の方だ。あぁ、ややこしいな)は鼻歌なんか歌っていたぜ。
「なんだか今日は、いい相撲が取れそうな気がする」
そして予想通り、巨漢の大関・小錦に勝ってしまうんだ。今まで一度も勝てなかった相手なんだよ。
まったく、ジンクスというか、ゲンをかつぐっていうか、そういう目に見えないことの影響ってのは大きいもんだな、とおれは感心したよ。もっとも、勝負師たるもの、そんな簡単に影響をされていいのかな、と心配にもなったがね。
あぁ、言い忘れたが、もちろん、このことは大和海本人には内緒だ。その他の誰にも言わず、親方とおれだけの秘密になった。せっかく面白い記事が一本書けそうだったんだけどね。それより、 一人の力士が調子よく勝てるんなら、そっちの方を助けてやりたくなるのが人情ってものさ。
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