アイドルという想像の共同体、そして終身雇用制
アイドルとは想像の共同体である。
特に、成長物語である幻想の偶像を作り上げて行く過程を売ることが手っ取り早い商売であり、強固な支持基盤を作り出す。
そこでは閲覧者のまなざしという名のフィードバックそのものがコンテンツに再度取り込まれ、想像の共同体を強化していく。
長らく続くコミュニティに根ざしたコンテンツほど、それはシステム化され、暗黙の共有がなされる。
ジャニーズは、宝塚歌劇団の育成システムを参考にジュニアから育て、先輩のバックで踊るシステムを構築してきたといわれているが、宝塚と違うのは2点。入所、デビューの選考はジャニー喜多川氏の独断であること、卒業制度がないことである。
これまで、ジュニアだろうがSMAPだろうが、この組織を抜けるものは、芸能界では大きな苦労をすることになった。
それは、ジャニーズというシステムがテレビという拡声器にプロモーションを依存してきたからである。
放送波には限りがある。
番組の数には限りがあるのだ。
組織的に一生手放されないタレントとファン。
視聴者を失っていく旧いメディア。
この共依存の結果生まれたのがバラエティ番組へのアイドルの進出であり、司会業への進出である。
とくに報道番組において司会はキャスターとして情報伝達のインターフェイスとなり、最も冷徹なジャーナリストとならねばならない。
どんな悲しみの事件に接しても動ぜぬ強さと見識が求められる。自身が関与した場合は潔くインターフェイスの役割を降りることが求められる。それが公平な報道というものである。基本的にアナウンサーを報道各社が自社で抱えるのはそのジャーナリズムの側面に責任をもつためであったであろう。報道各社はその公平性への配慮から、社員に副業もかなり幅広い投資商品の購入も禁じているところが多い。他社のPRや政府公報などへの出演など言語道断である。
というわけで未成年者への事件に際して、加害者に感情移入した顔を見せるなど、公共性のある電波のインターフェイスとして失格だ。
付随してくる人数に負けて起用しまくったテレビ各社も本来の業務目的を忘れているし、喜んで二足のわらじとかいってるアイドルも業務遂行上の欠陥を看過してるし、後輩や同僚に辛い顔でコメントさせるなとかいってるファンも想像の共同体が何を対価にしているか忘れている。
アイドルは、アイドルを全うしてほしいし、無理、できないと思ったら潔く辞めて欲しい。それが仕事というものではないのか。
生活の糧とは、人命を犠牲にするべきものではない。
事務所もファンも引き止めるのは手塩にかけて育てた会社の後輩の退職を阻止しようとするブラック経営陣と同じ立場であることを自覚するべきだと私は考える。
この、狂おしく美しい熱狂のアイドルという想像の共同体。
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