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ジェンダー日記#3「気にしないこと」ができるようになるまで

「気にしない」というのが、性自認のズレを認識している私たちにとって、すごく大切なことなのかもしれない。

鬱の周期は、今回、「底辺」の期間がすごく長かった。主治医にも言ったけど、自分の自信のなさが他者との比較(自分が偽物だと思う感覚)につながって、どうしてもそこから抜け出せない。診察のときには、すでに底辺を脱していた時期だったけど、どうやって抜け出せたのか、と尋ねられたけど、何もできなかった、が回答だった。あがいても、流れに任せても結局同じだった。私は、他者にはなれない。ホルモン療法も諦めている私は、せめて乳房だけでも本当の女性と同じ成長の過程を辿りたいと思っているけど、それも独断で進めても、家庭内の不和を引き起こすだけだ。だから、ジェンダークリニックの先生に言われた、「妥協点を見出して、そこにホルモン療法が含まれるならOK」ということが、時間が経つとわかってくる。

相変わらず「プエラリア」のサプリを飲んでいるけど、気休めみたいなもの。お守り、と言っていいかも。確かに脂肪はつくのだけれど、それだけ。乳腺の発達などは無し。当たり前だ。

浮上してきて、やっと職場で好きな服を着てても、リラックスできるようになった。どうしても理想(女性)への同化意識が強くて、妬みは消えないのだけれど、少なくとも、自分という人間が、(身体上は)異性の服を身にまとっている姿を鏡で見ても、劣等感が小さくなってきたのは確かだ。

カバー写真みたいに心が晴れ渡ってる訳ではない。だけど、ずっと雨が降っていた時期は通り過ぎた気がしている。

結局、浮き上がったり沈んだり、それをずっと繰り返していくのかな、と思うと気が遠くなるけど、でも、「周期があるんだ」と自覚できているのと、そうでないのは大きな違いだと思ってる。

私は女性には生まれなかった。男性に生まれて、社会人になるまで、はっきりとした違和感は感じなかった。でも、気づいたら、気づく前には戻れない。ズレてる、という感覚は、これからも続く。鬱の寛解とは異なり、性自認のズレは一生消えないだろう。

「個性」と言ってしまえば、耳に優しく聞こえる。でも、そうやって聞き流せない周期も定期的にやってくる。心の中の嵐みたいなものだろうか。シスジェンダーとして生きている人たちでも、同じジェンダー間でいろいろと優越感/劣等感を感じながら、それを日々乗り越えながら生きている。

私の場合は少し特殊で、「あの先生かっこいい」と女子生徒が私以外の男性教諭を指して言っていると劣等感を感じるし、逆に「あの先生すごくきれい/かわいい」と女性教諭を指して言っていると、同様に、もしくはそれ以上に心が焼き切れる気がする。私も「Saya先生、スカート新しくなりましたね」とか「その靴似合いますね」とか、そう言われると素直に嬉しい。でも、それは純粋なシスジェンダーのどちらかを指して言っているニュアンスと、微妙に違うことに気づいている。枕詞に、「異性装している割には」という言外の意味が含まれているような空気を感じる。

でも、シスジェンダーのひとたちも同じか。私も男性として生きてきた間は、同じジェンダー間での劣等感に苛まれてきた。特に外見・ルックスに関してだけれど、ひどくそれ(外見への劣等感)に固執しすぎている、とは何回か家人に言われたことがある。

回り回って、結局一緒、ということか。人はだれでも他者を羨む。それだけのことか。でも、そう言い聞かせても、納得はできない。それが人間、ということか。




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