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君は残念ながら1人じゃない。

今日読んだ本。

いくら自分の聖書を読んだところで、あらゆる他人の聖書を読んでみないかぎり、なんの役にも立たぬということを、世間はいつになったら理解するだろう。

「折れた剣」 G・K・チェスタトン

この聖書というところには、他にもいろんな言葉が当てはまりそうだなと思う。
ルールブックとか教科書とか。自分が思ってる優しさだとか正しさだとか。
自分の考えがあること、自分の価値観や信条があることはいいことで、誰にも流されずにそれを貫くことかっこいいみたいなところがあるけど、それはただ単に他の誰かの邪魔でしかないこともある。
人混みの中で一人だけ突っ立って通行の妨げになるようなもので、ただの自己中で空気の読めない人だ。
一人荒野で突っ立ってるだけならいいけれど。


木皿泉脚本のドラマ、『セクシーボイス アンド ロボ』に「だってあなた、ひとりで生きてるんじゃないもん。この世界にあなたは関わってるの。どうしようもなく、関わってるのよ」というセリフがある。
それまで「君は一人じゃない」という言葉が重くて、それを言ってる方は暖かい気持ちで励ますつもりで言っているようだけど、私は一人じゃないということが重かった。

だからこのセリフみたいに、一人じゃないことを重いもの煩わしいもの、としてくれる方がよかった。「君は一人じゃない」と暖かく言われるのも重い、「君は残念ながら一人じゃない」と言われるのも重い。でも後者の方が見えてるものが同じ気がして、その重さに安心する。
そうなると、「同じことを感じてる人がいたんだ一人じゃなかった」となって、一人がいいのか一人が嫌なのかわからなくなって来るけれど。


私たちは一人で荒野に突っ立ってるわけじゃなくて、みんなそれぞれ自分の聖書を抱えながら歩いている。
それぞれ微妙に中身は違うだろうけど、多数派とか少数派とかにも分かれたりもする。
人混みのど真ん中に突っ立って行く手を遮る人もいる。

みんなそれぞれ自分の聖書を抱えていることを知りつつ、人の邪魔にならないように、私は私の聖書を抱えながら人混みを縫うようにスイスイを行きたいところへ行く。
そんなことができたら、まさに自分の価値観信条があってかっこいい人になれるのに。

一人で生きてるわけじゃないので、どうしようもなくこの世界に存在して関わっているからこそ、誰かの一人を邪魔したくないなと思う。
だけど世界とか、誰かの一人とか私の一人を守るために、私は私の聖書を持って誰かの前に立ちはだかることだってあり得るのだろうか。
まだまだこれが私の聖書だと思えるものすら見つけてないのだけど。



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