遠くの他人と手元の本

子供の頃毎日はとても閉鎖的だった。辛い時周りに助けてくれる人はいなかったし、頼れる人もいなかった。そんな時私が頼り、逃げ込んだのは本だった。
といっても、非日常を感じさせるようなファンタジーや冒険物語に逃げ込んだのではない。そうではなく、特別なことは何も起こらないような、日常を淡々と書いているような小説、その小説の中に書かれた現実的な誰かの生活や日常に救われた。登場人物たちがお風呂に入ったり散歩をしたり、誰かとなんてことのない会話をしながら食事をしたり。そんな普通の、どこにでもあるような生活や日常は、私を私の日常から助け出してくれた。自分がいるそれとは全く違った生活や日常がそこにあること、それが例え自分の日常とは交差することのない並行世界でも、そんな世界がそこにありえるのだ、ということに救われた。
大人になっても本に救われ続けた。本を読んでいて思いがけず号泣したことがある。その本も小説だった。とはいえその小説は不治の病を書いたものでもなく、切ない恋愛を書いたものでもなかった。いわゆる泣ける小説ではなかったし、号泣したシーンも、そこまで劇的なものではなかった。それはそんな風に泣かせにきているのではない、ただ主人公が内面を吐露するシーンだった。他の誰かならすんなりと読み進めたかもしれない。だけど私のページを捲る手は止まり、そしてぼろぼろと泣いた。それは小説の中の言葉が、それまで抱えていたなんとなく辛い気持ち、なんとなく苦しい気持ちを言葉でなぞってくれて、輪郭を与えてくれたからだった。
自分でも何がこんなに辛いのか苦しいのかわからない、だけどどうしようもなく苦しい。そんな気持ちに輪郭が与えられ、形が与えられると、名前がつけられる。そうするとなんとなくの置き場所がわかる。そうして、その気持ちを持ったままでもどうにか生きていける。それは言葉によってもたらされた昇華だった。
遠くの親戚も近くの他人も頼りにならず、助けてはくれなかったけど、手元の本は私を救ってくれた。人間ではなく、ずっと本という物質に助けられきた。だけどどうだろう。本という物質、紙に印字された文字情報だって人の手によるものじゃないだろうか。本には当然作り手である作者がいて、それを世に出そう広めようとする、出版社や編集者や校正や取次、書店員、他にもたくさんの人間の手を介して、誰かの手元に届く。
本に思いが込められてるとするなら、それは「本を必要としている人に届ける。言葉を届ける。思いを届ける」といったものではないだろうか。少なくとも私が救われた本にはそうした思いが込められていて、それをしっかりと受け取ることができたからこそ、私は救われたのだと思う。
ずっと手元の本だけに救われてきたつもりだった。だけどそれだけではなく、見知らぬ他人、思いを言葉にし、それを本に変え、誰かに届けようとする他人、そんな遠くの他人に救われてきたのだ。それはこれからも、ずっとそうだろう。

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