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ボリス・グロイス「流れのなかで」、変容する美術館、トマトスープ、ゴッホ

2022年10月13日、2人の若い環境活動団体「Just Stop Oil」のメンバーがゴッホの「15本のひまわりのある花瓶」(1888)にトマトスープの缶を投げつけるというニュースが報道され、私もぼんやり見ていた。

https://www.asahi.com/articles/ASQBS4VSHQBSUHBI00V.html

その時はふーんという感じだったが、friezeに2人のインタビューが出ていたのでそれを読んでいて、現代の美術館が抗議の場として使いやすいんだなということもよくわかった。ある種の非暴力的なテロでもあるので、よくわかんないこともいろいろあるけど。

まずTwitterにあげられている映像を見ると、security!と叫ぶ人もいて…、でも周りの人がすぐに取り押さえるとか、監視も飛んでくるって感じでもなかった。

逮捕されるが5000ポンド以下の器物破損ですぐ保釈になったそう。美術館という安全な場、ガードマンや監視員もいて、このような行為を行ってもある種守られるということが背景にあるとも思ってしまった。

手に接着剤をつけて壁にロックオンして、その場をすぐ離れられないようにしてたけど、活動家の2人は壁を向かずに写真を撮られることを意識してポーズをとっている(ように見える)あたりから、美術館という場がSNS映えする背景なんだなと感じた。もちろん富裕層や保守層へのアピールの場としても格好なのだろう。

トマトスープのオレンジ色も、なんだか綺麗だしね。トマトスープって赤じゃなくてあんな色なの?とか、その後別の団体がモネの絵にマッシュポテト缶をぶちまけたと見て、え?なんか水混ぜてるのかななどと思ってしまった。環境活動なら大量生産されたトマトスープ缶じゃなくて自分で作ったスープを水筒から飛ばすとかのが良くない?とか皮肉も思ったが。

このニュースを受け、自分がショックを受けないことに少なからずショックを受けたが、もはやゴッホもモネも特別性がないというかアウラがない状態の額に入ったただのイメージになってしまったように感じた。実物を見るとゴッホなどは心を動かされる作品がたくさんあり、大好きな作品もあるけれど、それでもこのニュースには感情が動かない。まあフレームで守られていることも大きいけれど。

昨年邦訳が出版されたボリス・グロイスの「流れのなかで」で、インターネットの時代にアートがどう変化しているかをさまざまに論じているが、美術館の変容についても述べている。

「美術館はパーマネントコレクションの場であることをやめ、移り変わるキュレーションされたプロジェクト、上映、講演、パフォーマンスなどの舞台となった。」
「流れの中で」より

グロイスは現代の美術館が物質よりも流れや記憶を重視しているという点や、たとえばマリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンスなどのイメージの方がSNSで拡散されるとも述べている。
このような変容と共に、開かれた美術館を標榜していた現代の美術館は、その性質を利用され、政治的主張の場になってしまった。ニュートラルであろうとする意識がこのテロを受け入れ、権威的な制度がテロを招いたというか。

他の行為を引き起こさないといいけれど、美術が劇場的になっていく流れは止められないかもしれない。運営側はどう対応し、どんな規制を作っていくだろうか?

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