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キュレーティングあれこれ:鴻池朋子さんの「ハンターギャザラー」から考える

キュレーションとはなにかについて鴻池朋子さんの個展(「ちゅうがえり」アーティゾン美術館、2020.06.23 - 10.25)で紹介されていた『ハンターギャザラー』を読んで考えたことを書いておく。

鴻池さんの展示はいつも空間の使い方がうまくて、あっと思うところに作品が仕掛けられている。この展覧会でも隠し壁のような仕組みや、大きなインスタレーションの一部にイメージの源泉がのぞけるような仕掛けがあったと記憶している。

過去に見たなかで好きだったのは大原美術館、有隣荘の個展で、窓越しに見えた木から作品の一部である子どもの足が見えたりして、自分が作品のなかに入っていってしまうような導きがあった。

久々にまとめて作品を拝見したアーティゾンの個展ではワークショップや屋外の作品など、作家自身だけでなく他人の鮮やかな記憶も発掘し発酵させていく仕事が丁寧に紡がれていた。屋外に設置された作品自体も発酵していくようなじんわりとした変容を読むことができた。

どのように空間を作るか考えるとき、鴻池さんの展示を見るだけで参考になるが、この展示でも紹介されていた著書『ハンターギャザラー』を読んで、空間の作り方を言葉が規定していく話がとてもおもしろかったのでここに書いておきたい。ハンター・ギャザラーは秋田県立美術館の鴻池さんの個展の図録でもあるのだが、アーティストがどのように「展覧会」に向き合うかということがさまざまに読める。展覧会のタイトルをどう考えるか、空間をどのように作り上げるか。(しかしこういった作家の思いを読むと、展覧会の実務を進行していく身としては「展覧会のタイトルの締め切りはこの日まで」とあっさりメールもできなくなる・・・いつも気を遣って締め切りは伝えているけれど・・・)

「人間がつくりあげてきた文化とは、ハンターギャザラー(狩猟採集民)という原型を発展させてきたものです。」(P.114)
狩猟して、収集するということをものづくりに重ね合わせ、思考を結実させていく展覧会という創作物。展覧会の「完成」は「便宜的な途中」に過ぎず、変容を重ね、見る人とつくる人が溶解している、とも書いている。それは、鴻池さんの展覧会観というよりも作品の世界観そのものであるとも読める。

さて、話を戻すと鴻池さんと村井まや子さん(おとぎ話の研究家)の対談「ロンドンのカレー屋で」が、この本のテキストの導入となっている。村井さんがキュレーションしたリーズ(イギリス)での個展「Fur Story」の設置を終えたあと、「実際の空間やその建物を何度も何度も見ていると、そこにあるルールのようなものが見えてくるので、それを見つけられさえすれば、作品・展覧会はほとんどできたも同じなんだよね」という鴻池さんの言葉に村井さんはひどく驚く。

そのときの気づきは、英語では「install」や「exhibit」は他動詞で、目的語installやexhibitされる対象が動詞にくっついてあらわれる。しかし、展覧会はそのような主体・客体(文章にすると作家が主語になり、作品や会場、観客が客体となる)と線引きをするようなものではない。そもそもインスタレーションという概念が、そういう構図をどうにかして崩そうとして生まれたのではないかーと鴻池さんは述べている。見る人とつくる人が溶解し変容するものを展覧会と考える鴻池さんには他動詞のexhibitが新鮮なのだ。

言葉や文法が思考を規定していくということが文化の奥深さでもある(中動態や受動態のあり方も言葉が文化や歴史を規定するということに近いわけだし)。
鴻池さんの仕事は、そういう意味ではinstallではないという。鴻池さんの作品は場所が主語なので、建物もなにもなかった地形も見えてくるくらい、その場所のかたるなにかに耳を済ませていく。当然見る人も含んだinstallationになる。

鴻池さんは、この村井さんとの対談の導入から、ご自身のテキスト「ハンターギャザラー」まで、一貫してどのように「つくる」か真摯にまとめている。完成のように見える状態を壊し、不安定にさせ爆発的なエネルギーをつくる、などは至言。空間に亀裂をつくる段階があること、それは理論を超えた魔術のようでもある。

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