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現代アートとドゥルーズは親和性が高い…と気づく:千葉雅也「現代思想入門」を読んで


現代思想入門 (講談社現代新書)

現代アートを勉強していると現代思想が難しいハードルになることはよくある。美術史の先生たちも意外とぼんやりしかわかってないこともあるし…というわけでこの本は現代アートを理解するためにも必読書である。と同時に近年こんなに入門書的な書物がたくさん出てることも紹介されている、使える入門書だった。わたしは特にドゥルーズとニーチェを本書を入り口に勉強できそうとワクワクする。こんな本が2000年代初めにあったら学びの深度が違っただろうとつい思ってしまう。

さて本書を読むとデリダでもフーコーでもなくやはりドゥルーズが現代アートとの親和性が高いのだなと再認識させられた。

デリダの「概念の脱構築」、フーコーの「社会の脱構築」を使って美術を語っていた時代は過ぎて、それが大前提として共有されている。そこにドゥルーズはその穴を埋めるように隙間に入り込むように存在を脱構築させていくと感じた。

デリダに関してはパロールとエクリチュールという、話し言葉と書き言葉の二項対立という今なら聞いただけで二項対立が設定され得ない内容(そう思うのは私だけだろうか、書き言葉の方が優位な気もしてしまうし、話し言葉の方が曖昧で弱いイメージを持ってしまうが話し言葉の方がダイレクトでエクリチュールが間接的ということ)なのだがそこを基点にしておくと諸々納得いく。

日常を他者性の泡立つサイダーというイメージで捉えることで完全な二項対立が存在しないというのもうまい表現だし、ドゥルーズの考え方はソーダ水のような泡立つ世界のイメージ。根茎(私にとっては竹のイメージだけど千葉さんは芝と書いていた)についても、ダイナミックに横断しながらもすべてがこんがらがって「ダマ」のようになるわけではない(p112)というのもイメージしやすい感覚であった。

ドゥルーズは学生の頃にわけも分からず読んでいたけれどそれも無駄ではなかったし、感覚的な部分は間違っていなかったことを認識した。

生成変化や未分化な感覚、ドローイングのような感覚の発露、領域を自由に横断する表現、壊れやすい素材や長くは保管できない技法も実験すありよう、そうした全てがドゥルーズの語っていることに寄り添うキーワードである。

これらは松井みどりさんの掲げたマイクロポップに、学生時代の多感な私が寄り添いながら、ドゥルーズも齧ったことで深められたのだと思う。子どもの遊歩、少女の繊細で多感だけれどでたらめな学びの深め方、夢みがちなまま操縦しきれない船で思い切って現実に漕ぎ出していく感覚、そういう自分の感性もみずみずしく思い出せる。今はそういう感覚を忘れかけているけど、息子と一緒に遊んでいると取り戻せる時がある。

脱線してしまった…
現代思想を感覚的に読んでもいいと千葉さん自身もこの本で肯定してくれているように感じる。特に現代思想はちょっとやそっとじゃ深く理解できないんだけど、でも読み続けると理解が深まるし自分を写すようにリテラシーを育んでいけるようなもので、それはまさに現代アート(のみならず美術全般)のリテラシーの重ね方にもつながる。

改めてドゥルーズも勉強しないといけないと同時にこの本では、原典に当たらなくてもよくて入門書もたくさん紹介してくれているのが素晴らしいと思う。
そうやって背景を知りながら体得すれば良い、それが現代思想なんだなと思う。

いまはニーチェをよく知りたくて、千葉さんのTwitterで知った「ニーチェはこう考えた」を読んでいる。

自分としてはこれから千のプラトーや批評と臨床を再読してみようと思いその都度、現代思想入門には立ち返りたいなという内容だったし、千葉雅也さんの他の本も食わず嫌いで読んでこなかったので挑戦したいという宣言で一旦この読書日記は締めくくる。

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