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まばたき一瞬

旅人は今日も旅を続けています。
目的などない旅でしたから、自由気ままに過ごしていました。

よく晴れた日の午後歩いていると、大木の下で何やら耳をたれ下げため息をついているうさぎと出会いました。
うさぎは何だかとても寂しそうな様子です。

「君はなぜ、寂しそうなんだい」

旅人は聞きました。うさぎは、うう、とうなると言いました。

「なぜって、昨日ぼくは迷子になってしまってね。ひとりぼっちで歩いていたのをこうして思い出しては、寂しくなるのさ」

旅人は変だなあ、と思いました。

「まだ寂しいの? 昨日のことなのに」
「なに、思い出してはため息をつくのが寂しいささ」

うさぎはそう言って去っていきました。旅人はその後ろ姿をぽかんを見送りました。

しばらく歩くと、こんどは草むらで、よよよ、となげき悲しむとかげと出会いました。
とかげは涙もあふれ、とても悲しんでいる様子です。

「君はなぜ、悲しんでいるんだい」

旅人は聞きました。とかげはしくしくと、涙をこぼすと言いました。

「なぜって、三日前に大事なしっぽをちぎられたのさ。こうして思い出しては泣いて、悲しんでいるのさ」

旅人は呆れかえってしまいました。

「まだ悲しんでいるの? 三日前のことなのに」
「なに、思い出してはまた涙をこぼすのが悲しみさ」

とかげはそう言って草むらの陰に隠れてしまいました。旅人は呼び止めることもできず、しかたなく立ち去りました。

またしばらく歩くと、まっ白い猫がいました。草むらの真ん中で、ぷんぷんと腹を立ててせっかくの白いお顔を、赤くしています。
どうやら猫は、怒っている様子でした。

「君はなぜ、怒っているんだい」

旅人は聞きました。猫はシャー! とうなり声をあげて怒鳴りました。

「なぜって、あのいまいましい犬が十日前おれを追いかけまわしやがったのさ。思い出してもああ、腹が立つ。怒ってしまうね」

旅人はあっけにとられてしまいました。

「まだ怒っているの? 十日も前のことなのに」
「なに、思い出しては腹を立ててしまうのが怒りってもんさ」

そう言って猫はひらりとジャンプし、草原から姿を消してしまいました。旅人にはもう、猫がどこへ行ったのかわからなくなりました。

旅人はまた旅を続けました。
ずんずん歩き進み、いつの間にか丘の上に来ていました。

その丘には一本、大きな桜の木がありました。とても見事に咲いています。まるで雪化粧のようなうすピンク色の桜です。

「これは見事な桜だなあ」

旅人はここで一休みをしようと思い、腰をおろしました。
すると目の前に桜の精が現れました。とてもかわいらしい、小さな女の子の精です。

「こんにちは旅人さん」
「こんにちは桜の精さん。ちょっとここで休んでもいいかな」
「ええ、もちろん」
「ありがとう。それにしてもこの桜は、本当にキレイだね」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。私は、楽しみの桜、と呼ばれているの。でも今は何が楽しかったのか、わからなくなっているの」

そう言って桜の精は、旅人の横に座りました。旅人は、さっきの出来事を思い出しながら言いました。

「そうなの。でもさっきぼくは、昨日の寂しさでため息をつくうさぎと、三日前の悲しみで泣いているとかげと、十日前の怒りで腹を立てている猫に出会ったよ。なのに君は、楽しみを思い出せないの?」
「ええ。楽しみは、思い出しても同じように楽しめない。その時、その場所、その人たちとでなければ……あの空間は作れなかったことを知っているから」

ひざを抱えそう言う桜の精は、とても小さく見えました。
桜の精は今、何を思い出しているのでしょう。
きっと、昔桜を見に来てくれた人や動物たちのことを思い出しているのでしょう。
けれどここはもう桜は、この一本だけ。
これを見に来る者が少なくなってしまったのかもしれない、そう旅人は考えました。
それなら、そう、呼べばいいのさ!
旅人は思い立ちました。

「じゃあ桜の精、ぼくが楽しみをまた呼ぼうじゃないか!」

旅人は走り始めました。そして、まだ寂しがっているうさぎと、まだ悲しんでいるとかげと、まだ怒っている猫を見つけると、桜のもとまでつれて来ました。

最初は寂しがっていたうさぎが、桜を見て言葉をなくしました。
最初は悲しんでいたとかげが、桜を見て涙を止めました。
最初は怒っていた猫が、桜を見て目をまあるくしました。

なんてキレイな桜でしょう。心の中がさあっと、水か何かで洗い流されたように、すっきりした気分です。
そしてその後始まった旅人との花見に、うきうきと心がはずんできます。旅人は陽気に歌いました。


さあさ、花見が始まるよ。
暗いことなんて吹きとばそう。
楽しいことはまばたき一瞬。
この時。
この場所。
この者たちと。
思い出したくても思い出せない。
なぜなら楽しみはまばたき一瞬。
だから大事。だから大切。だからその一瞬を、一所懸命に。
さあさ、花見だ。よってこおい。


この歌は丘の上から下の方までひびき、森中の動物と人々が集まってきました。
桜の精はこんなにたくさんの人や動物に囲まれたことがとても嬉しくて、楽しくて。いつも以上の満開の花を咲かせます。

旅人はこの花見を見届けると、また旅を始めました。
その手の中には、もう茶色くなり始めた桜の花びらが一枚、あったのでした。



おわり

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