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「育児は育自」の本当の意味

子どもが生まれてから、「育児は育自」という言葉を聞くようになりました。

この言葉を初めて聞いたときは、「子を育てると同時に、親も親としての経験とスキルがついていく」「子のピュアな目線に教わることで、親も人間的に成長する」…そんな感じの意味かなぁと思っていました。実際に世間でもそういう意味で使われていると思います。

確かに、子育ては学びが多い。人間的に成長もしてるんだと思う。でも、この「育児は育自」という言葉、実際に子供を育ててみると、そんな表面的な意味じゃなく、アイデンティティーに関わるとても奥が深い言葉だなと思うようになりました。


子育てを通して、自分自身の幼少期の記憶と向き合う

子育てで意外だったことの一つが、我が子と接することを通して、自分が子供だった頃のことをめちゃくちゃよく思い出す、ということです。

それはいいことも多いですが、よくなかった些細なことも。両親には何不自由なく幸せに育てられたと思っていたけれど、よくよく思い出せば「あの時こうされたの、けっこう嫌だったな」「もっとこうしてほしかったな」みたいなこと。かつて自分が「やだなー」と感じて、でもそのままなんとなく過ぎ去って忘れてしまったことを、掘り起こして再認識してしまった感じなのです。

例えば…

  • 一生懸命やってもうまくいかないときに、親に笑われたり、からかわれたり、呆れられたりするの嫌だった

  • 「絶対失敗するから」って言われて、失敗したら「だから言ったでしょ」って言われるの嫌だった

  • 服とかをダサいって親にいわれるの嫌だった

  • 「ドジだから」とレッテルを貼られるの嫌だった

  • お手伝いを邪魔だと言われて、「邪魔をしないことがお手伝いだよ」みたいなこと言われたの嫌だった

  • お友達の輪に入れず、不安で自分の髪の毛を持ってなんとなく口に入れて舐めてたら、「髪の毛おいしい~?舐めたらダメだよ」って幼稚園の先生に笑顔で注意されたの嫌だった(行為を指摘するんじゃなくて、心の中の不安に気づいてほしかった)

  • 芋掘り遠足で芋を掘れずに泣いたことがあって、後日芋掘りの絵を描いているときに、先生が「掘れなくて泣いてた子もいましたけどね~w」って暗に私のことを言ってたの嫌だった

具体的に書いていくとこんな感じ…笑

まあ、どんくさい子供だったので、先生も親もイラっとしたのだと思う。(親になったのでその感覚も何となくわかってしまう)

でも、思い出したからといって親や幼稚園の先生(もうあんまり覚えてない)を恨んだりする気持ちは全く芽生えず、「嫌だったんだなー、私。」と今更ながら腑に落ちた、素直に認めることができた、という感じでした。(多分、子育てしなければその記憶も気にせずスルーしたまま生きていた)

そして、今の私にできることは、「あの時私がかけてほしかった言葉、してほしかった接し方」を、そのまま子供にしてあげれば良いのです。もう、子供がいるので、それをやってあげられる存在になっているんです。


「子供の頃の自分にしてあげるかのように」子供に接する

例えば、

  • 子供が失敗して面白かったとしてもからかって笑ったりせず、大真面目に接してあげる

  • たとえ手間が増えて大変でも、お手伝いしたいと言ったらなるべくさせてあげる

  • 子供がすること、選んだもの、とりあえず最初は「いいや~ん!」と言ってあげる

  • 子供が不可解な行動を取ってたらその理由を聞いてあげる、もしくは自分から理由が出るまで待つ

  • そしたら「そっかー、そうだったんだね、わかったよ」と言ってあげる

これらは、育児書に書いてあるような「模範的な接し方」に見えるかもしれない。でも私にとっては「私が子供だったらされて嬉しいこと」だ。

だから私が、“子供の頃の自分にしてあげるかのように”自分の子にしてあげる。イヤイヤ期のどんなわがままも、自分の体験を元にすればしてほしいことがだいたいわかる。してあげれたら、子供の頃の自分、大丈夫だよ!という気持ちで安心感につながる。今の自分自身もほめてあげられる。

なんというか、自分の原体験をなぞって、自分を再構築していく、心理学でよく言われる「インナーチャイルドを癒す」みたいな感覚です。

なので、私にとっての「育児は育自」の本当の意味は、
「子に接すると同時に、子供の頃の自分にもう一度向き合ってあげて、かけられたかった言葉をかけてあげることで、自分自身が癒され、ありのままの自分に向かっていき、生きやすくなる」
ということなんじゃないかと思っています。


「子に自分を癒やしてもらう」のではなく、「子に対峙する自分の姿によって自分自身が癒される」

ここまでの話は、もしかしたら利己的に聞こえる人もいるかもしれない。結局子供のためじゃなく自分のため?って。でも、私は逆にそれでいいと思うし、そうあるべきだと思っています。

子供のためにしてあげてる!と一方的に押し付ける想いは、大抵反抗期に反抗される(気がする)。まずは自分のために自分が満たされれば、その結果子供も安定して、Win-Winなんじゃないでしょうか(^O^)

「子に自分を癒やしてもらう」のではなく、「子に対峙する自分の姿によって自分自身が癒される」のです。だから、「自分が果たせなかった夢を子供に託して叶えてもらう」みたいなのともちょっと違って、あくまで自分の行動が主体で自分発信のセラピー(?)です。

模範的な子供への接し方が書いてある育児本を読んだりしたら、「なんでここまで親が気を遣ってあげなきゃいけないんだ、親だって色々あるし癒やされたいんだ~!」と思う時もあるけれど、「子供の頃の自分(インナーチャイルド)」にしてあげるのと同じ、と思えば、意外とけっこうできてしまうものです。

もちろん余裕がなくてできない時もあって、イライラしてしまうときもあって、まあその時は仕方ないので、後で「おこっちやってごめんね」って子供に謝るしかないのですが(笑)

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