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共感と9年間

 共通点があることはうれしい。静岡県に住んでいた時期があるから静岡出身のアーティストに会えると「静岡のどちらにお住まいだったんですか?」と訊いて、近かったときはやはり喜ばしいし、仕事で同い年の人と会えたときも「お!」と盛り上がったりする。

 でも共通点が多くてうれしいのはきっかけに過ぎなくて、相手をさらに踏み込んで知って「自分と違うところが面白い」と思えた場合のほうが仲が良くなる、ということが自分の場合は多い。たぶんわたしは、共感できることに対してそんなに重要性を感じていない。自分と違う部分をリスペクトできて、自分と違うことを楽しめる人に惹かれるんだと思う。

 それは音楽を聴く場合でも同じで、意味に共感できる歌詞に惹かれるということはほぼない。言葉のチョイスや組み合わせに美しさや躍動感があったり、観たことのない景色を描いている歌詞に魅力を感じることがほとんどだ。19歳の時に出会ったART-SCHOOLはまさにそれで、木下理樹氏が見る女性、愛、性、孤独、喜怒哀楽、それらがとても自分にとっては新しくて、刺激的で、どきどきわくわくするものだった。

 「歌詞に共感できなくなっちゃったからART-SCHOOL聴かなくなったよ」と言っている人がいたが、わたしの場合はこの10数年、歌詞の面で言えば、木下理樹氏がいまどう思っていて、なにを感じていて、どんなふうに表現するのかが楽しみだった。そこに共感の要素はなかった。

 読者さんから「自分の思っていたことがすべて言葉になっていた」と言っていただくことがしばしばある。喜んでいただけることは、心からうれしいことだ。だがふと「この人が共感できない文章をわたしが書いたら、この人はわたしの文章を読んで喜ぶのだろうか」という考えが頭を過ってしまった。

 だが共感を狙って文章を書くことはできないし、誰にでも好かれる人なんて存在しないのと同じで、誰にでも喜んでもらえる文章を書くことは無理だと思う。となると、わたしはその時その時の自分に正直に、誠心誠意こめて真摯に、頭と心を極限まで振り絞って精度の高いものを書くしかない。

 自分が文章を書いている理由は「文章を書くことが好きだから」で、目的は「もっといい文章が書きたい」と「自分なりの批評をしたい、それを読者さんに届けたい」だ。それによって結果的にハッピーになってくださる人がいることはものすごくうれしいことだけれど、誰かをハッピーにするために書いているかというと、それは違うなあと思う。

 3月16日でTwitterを始めて9年だそうだ。ありがたいことにこの9年、いろんな読者さんから「文章が好きだ」と言ってもらうことがあった。あの時いろいろコメントを下さった方々はどうしているんだろう、としばしば思う。その人たちのあたたかい言葉のおかげでわたしは続けてこれたから、元気な姿を見せられたらな、と思ったりもする。

 わたしの書いているものも根本的なところは変わってないけれど、9年でだいぶ変わったし、お仕事するアーティストや媒体さんも変わってきたら、読者さんも変わってくる。そういうものだろうなと思う。来るもの拒まず去るもの追わず。それでもわたしはこれからもずっと変わらず自分の信じるいいものを書いていくから、いつかふと思い出して「そういやあいつ今どんな文章書いてるんだろう」と戻って来てくださったら、とてもうれしい。

最後までお読みいただきありがとうございます。