才能と自信

 3月4日に息を引き取った飼い犬に、またまたお花が。たまちゃんよかったね。いただくお線香、どれも桜の香り。春を待たずに死んだ彼に、みなさんが春を届けようとしてくださってるのが、とてもありがたいなと思う。

 Twitterにも書いたことだが、友人が「『才能がある』と言われることで自信をつけたし、『自分には才能がある』と信じてきた」と言っていた。それを聞いて、自分は「文章の才能があるよ」と言われたこともなければ、自分に才能があると思ったこともないし、今も自信はないなあと思った。

 もちろんライター駆け出しの頃は、自分に才能がないと悩んだ時期もあった。だが「才能や自信は続けるうえでそんなに重要なのか?」と思う部分もある。なぜそう思うかというと、実父と実母がものすごく才能人だからだ。

 父親は日芸の写真学科を現役合格し、有名なカメラマンから可愛がられるくらいの写真の才能の持ち主で、母親もものづくりやデザインの才能がある人で、自分のデザインした洋服を売るお店を経営していたこともあるし、わたしを産んでからはアートフラワーの仕事やパッチワークの先生をしていた。だがふたりとも有名ではないし、父親に関しては才能を自分で全部殺していた。

 才能があってもこんなことになるなんて、じゃあ才能ってなんなんだろう。幼心にそんなことを思っていた。それを思い出してから、自分に才能があるとかないとかにこだわることをやめた。

 自分の書くものが少しずつ良くなっている実感があったこと、つらいことはたくさんあって状況は理想的なものではないとしても少しずつ良くなっていること、書くことが好きなこと、自分の書いたものが好きなこと、この4つを感じられているうちはどれだけつらくても続けることにした。

 この9年弱の間に「沖さんのインタビューが好きだ」「原稿が好きだ」と言っていただくことはそれなりにあった。わたしにとっては才能という不確かなものがあると言われるよりも、好きだと言われるほうが何十倍もリアルだったしうれしいことだった。まあ才能があると言われたことはな(以下略)

 ex.対人恐怖症でビビりですぐくよくよしてしまう完璧主義なので、よく母親から「いいものを書いているんだからもっと自信を持ちなさい」と言われてきた。相変わらず自信も持てないままだけれど、そのかわりに少しずつ自然体でいられるようになってきている気はする。

 自分なりに最大限いいものを書くことに尽力している時間はひたすらわくわくしている。わたしに必要なのは才能でも自信でもなくて、わくわくできるかどうかなんだろうな、ということに30代にして気付くという遅さ! うーん、30代はいろんな気づきがたくさんあって面白い。

最後までお読みいただきありがとうございます。