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転生を願う

 家の外に置いてある45Lのポリバケツに生ごみを捨てに行って、玄関の引き戸を閉めたとき、ふと取っ手の下一帯が汚れているのが目にとまった。わたしはプチ潔癖だというのに、この汚れは1年4ヶ月前からこのままだ。

 去年死んでしまった大型犬の球虎は、我々家族と関われることがいちばんの喜びだった。散歩に連れていくときは、「早く一緒に行きたい!」という気持ちが前のめりになって、毎度毎度引き戸を開こうと鼻や顔をぐりぐりとそこへ押し付けていた。

 取っ手下一帯の汚れは、その蓄積である。こんなに汚れていたなんて、彼が生きている頃には全然気付きもしなかった。それが目にとまるたびに「拭かないと」と思うのだが、そのたびに今か今かと家を出ようとする犬の姿が目に浮かんで、名残惜しさからできなくなってしまう。

 汚れだけは、あの時のままだ。もう彼はこの世にいないのに。



 1995年の夏、父を亡くした。それまでに母方の祖父母を亡くしていたが、その年に起こった阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、父の急逝の3コンボが、痛烈に死というものをわたしに刻み付けた。

 それからというもの、近しい人、自分が大好きな音楽を作った人、ずっと画面越しで観てきた俳優さん、10年以上一緒に過ごしたペット、いろんな死を見送ってきた。忘れることなどひとつもなく、すべてが「治らない傷」のように、生々しく身体に埋め込まれている

 その傷から自分を守ろうと、本能はどうしても「人はいつどうなるかわからないから、そのときが来るまでにたくさん触れ合おう」と「終わり」を考えてしまう。だが、それに抗うように理性が「また会えることを信じようよ」と語りかけてくる。過去のnoteでもそんな内容を書いた。

 人を亡くした時に生まれるのは「もっとこうしておけばよかった」という後悔と、その人の未来を見ることができないという悲しみだ。過去のその人の記録としか、触れ合うことはできない。死後22年経った今も、「hideさんが生きていたら、いまどんなことに興味を持っているのだろうか」と考えてしまう。

 だからこそ、また今度絶対に出会いたいと思う。フジファブリックの志村正彦氏が他界し、ずっと涙が止まらなかったとき、憔悴しきった心から「天国でリフレッシュした志村さんが生まれ変わって、また音楽を始めてほしい」という気持ちが生まれてきた。

 亡くなった命が生まれ変わって、遠い世界でもいいから、自分の目のなかに届いてくれたらいいな。生まれ変わりであることを知る必要なんてないから、ただこの先の未来で出会えたらいいな。

 おばあちゃんになったころ、二十歳くらいの新進気鋭の俳優さんを見て、令和生まれの若者に「この俳優さん、ちょっとあの人に雰囲気が似てるんだよね。平成から令和初期に活躍してた、すごく素敵な人で――」と語れたら、とてもロマンチックじゃないか。

 べつに表舞台に立つ人でなくても、自分の身近な人でなくてもいい。転んだ時に「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれた人が、電車で向かいに座っていた素敵な人が、もしかしたら大好きだったあの人の生まれ変わりだったら――それを知る術はなくとも、とてもうれしい。

 もし神様がいるのなら、死というものは「そろそろこっちに来て休みなさい」という神の思し召しなのかもしれない。そう思わないと、心が苦しくてたまらなくなってしまう。

 嘆いても嘆いてもその人は戻ってこないのだから、また出会えることを祈っている。だからわたしは、生にしがみつきたい。

最後までお読みいただきありがとうございます。