見出し画像

居留守の醍醐味

 「すみませーん」

 一軒家の我が家の窓の向こうから野太い男の声がする。おもむろに声のほうを覗き込んでみると、お隣の玄関の前に、声の印象と寸分も狂いもないほどの図体のでかいスーツ姿の男が、ハンカチで汗を拭きながら立っていた。

 インターホンから聞こえる奥さんの声に、男は「去年のいまごろも伺ったんですけど」と答える。業者だろうか? セールスだろうか? ここまでこの男の存在が気になる理由はただひとつ。セールスだったとしたらすぐ隣の我が家にまで来る可能性がかなり高いからだ。

 昔からセールスや宗教の勧誘が苦手だ。気が弱いので冷たくあしらうこともできないし、過去に何度も長時間捕まって「なぜ気丈に拒否しなかったのか」と後悔した。セールスマンはだいたい男性なので、やはり突っぱねることにはどこか恐怖心もある。

 季節は6月。時刻は午後3時。家にいるのはわたしだけ。冷房を入れるにはまだ早いため、家の窓を少しずつあちらこちら開けて過ごしている。もしセールスだったときのためにも、ここはひとつ「居留守」という最も平和的かつ効率的な方法を取ろうと思った。

 10分後、またさっきの男の声が聞こえた。今度は先ほどとは反対側のお隣さんの家に訪問しているようだ。それにしても声がでかい男である。

 「ああ、そうなんだねえ。それじゃあお父さんお母さんによろしく言っておいてね」

 お隣のお嬢さんがインターホンに出たようだ。確信した、これはセールスであると。となるとそろそろ我が家に来てもおかしくない。

 わたしは仕事を中断。パソコンを閉じてデスクの電気を消し、窓の外から気配がしないように部屋の中央部でうつぶせになって息をひそめた。もちろん電気などはつけていない。手元に携帯は持っていたが、動画を観るような音が出ることはしなかった。下手に窓を閉めたり、無駄な動きをすると家にいることがばれてしまうかもしれない。イヤホンを取りに行くことも諦め、ただただ敵(セールスのおっちゃん)が来るのをじっと待ち続けた。

 さあ、来るならいつでも来い。いつインターホンが鳴っても動揺なんてしないぜ? 妙なテンションに陥り、なんだかキャラも見失っていた。

 だが30分経っても敵(おっちゃん)が来る様子はない。おかしいぞ? このあたり一帯を回っているはずだ。そろそろ我が家に来る頃だろう。けっきょく1時間経ってもおっちゃんは来ず、わたしはただただ1時間もの時間を無駄にしただけだった。

 なんなんだよ。来いよ! こっちがなんのために居留守したと思ってるんだ。いや、来てほしくないから居留守してたんだけどさ? 居留守って来た人にいることを悟られずに隠れるスリルが楽しいんじゃん! 帰っていく様子をなんとなく察知して「助かった……」と思うのが快感じゃん! 居留守ってそうじゃん! 居留守ってそういうものじゃん!

 つまりただただ無駄に1時間畳に突っ伏していただけになった。バカだね~。

 なぜあのセールスマンは我が家に来なかったのだろうか。気になりネットで調べてみると、セールスマンも無駄なことはしたくないらしく、その家に人がいるかどうかを確かめるためには電気メーターを見ることが多いそうだ。

 誰かがいる場合はメーターの回りも速く、誰もいない場合は冷蔵庫などの待機電力のみのため回転が遅い。当時のわたしは電気もすべて消していて、冷房を入れてもいなかった。開いている窓は格子がついている場所のみ。駐車場は自宅の敷地外にあるため、居留守どころか完全に留守の家を作り上げてしまっていたのだ。

 居留守に意味がなかったわけではないようだが、不戦勝のような気分でなんだかすっきりしない。これから夏になるので、今度は冷房をつけたまま居留守にチャレンジしてみよう。

最後までお読みいただきありがとうございます。