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真っ暗な洞窟を目の前にするときの気持ち

 原稿を書こうと思うときは、だいたいいつも「さて、なにを書いたらいいんだろうか」という圧倒的な絶望感に駆られる。「よし、こういうことを書くぞ! 頭のなかを全部言語化してやるぜ!」と思ったことは、ほぼない。

 というのもあり、真っ白のワードの画面の左上で点滅するカーソルを見ると、正直「うっわあ……」とげんなりする。こんなに真っ白なのに、ほんとに黒く染められるのだろうかという不安しかない。それは真っ暗な洞窟を目の前にして「どんなものがあるんだろう、でも生きて帰れるのか」「入るの怖いよう」と入るのを渋るのと同じような感覚だ。わたしにとって身体のなかにある思考や感情を言語化するということは、真っ暗で見えない場所に懐中電灯を持って、なにがあるのかを探しに行くという行為なのだ。

 だが手探りで原稿を書いてみると、書いてるうちに道筋がわかってくる。書いている最中に「おおおお、こんなこと思ってるのかわたしは」や「ここでこんな言い回しをしてしまうんですね?」などと他人事のように思うことが多い。でもすべてに「そうそう! そういうことだよ!」と思う。自分自身に共感している。言葉にするとちょっと気持ち悪いやつだ。

 でもその感覚になってきたのもここ1ヶ月くらいのことだ。いままではもうちょっと心と頭の距離が離れていたから、頭のわたしが心のわたしの声を聞いて、それを一つひとつ言語化していくような感覚で文章を書いていた。だが少し心と頭の距離が近づいたこともあって、文章を書いているあいだじゅうずっとライターの自分を客観的に見つめる個人の自分が現れてきた。

 言語化という行為はとても理性的なことだ。心のなかにある言い表せない感情を言葉や文字という決められたものにはめ込まなければならない。だがその制約のなかで表現をするという面白さがたまらない。言葉は打楽器で、文字は色、文章は絵だと思っている。この真っ白なワードの画面に絵を描いているつもりでもあり、音を鳴らしているつもりでいるし、なにより文章を書いている。

 心の奥の奥まで感情が入り込んでしまったときは、とにかく奥まで探しに行って捕まえなければならないので、感動すれば感動するほど書くことが難しい。でもその冒険こそ自分の心身をすり減らすほどスリリングでどきどきするし、高揚するのだ。マゾなのかもしれない。

 最近はもっと文章にメロディをつけられたら、また自分の文章も変わるかもしれないなあ、と思っているところ。でもまだその域にまでは行けてないなあ。ゆくゆくは吐息まじりのファルセット使えるようになりたい。それはもうエッロいやつを。

最後までお読みいただきありがとうございます。