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「いいんじゃないの」で済ませていいんだろうか

自己否定しがちなのだが、最近、その思考を止める手段を一つ手に入れた。「いいんじゃないの」である。例えば「私はなんて文章が下手なんだろう」ときたら「文章下手でもいいんじゃないの」と返す。「でも下手だと面白い文章が書けない」ときたら「面白くなくてもいいんじゃないの」と返す。「面白くないと誰も読んでくれない」ときたら「誰も読んでくれなくてもいいんじゃないの」。これを何度も行ううちに、否定の要素が尽きてしまうというわけだ。

否定の語彙が尽きたとして「でも」と言いたくなるが、それには究極の返答が用意されている。「それで死ぬわけじゃないしいいんじゃないの」だ。ふいに浮かぶ程度の不安要素は深刻度が低く、死に直結するほどのことではないものがほとんどなため、こう来るとぐっと言葉に詰まってしまう。うん、文章が下手でも多分死なない。

この方法で、自己否定を続ける状態は止められる。自己否定することで何か解決方法が浮かぶならいいが、大抵はますます自分が嫌になるだけで、自分が嫌になっていることそのものが嫌になってきて、嫌になることに疲れてしまい、もういい寝る!とかになるのがオチなのだ。それよりは「まあいいか」として日常に復帰し、寝る前にちゃんと風呂に入ってきたほうが、心身にとって良いであろう。

ただ。「文章が下手でもまあいいか」で納得したままでいいんだろうか、と、落ち着いてみると思うのだ。「いいんじゃないの」は自己否定を止め、同時に自己疑心を止める。自分を疑うことを止め、自分の駄目を許すことも時には必要である。ちょっとした駄目くらい見逃す余裕があったほうが気が楽だ。小さい駄目たちの全てを完璧に叩き潰すことはできないから。

しかし、誰の目にも止まるくらい大きな駄目なら、なくしてしまうことは難しいとしても、わかりやすい部分を削って小さくすることくらいはできるかもしれない。文章が下手ならば、文章の練習をしてみたらいいのではないか。しても駄目なものは駄目かもしれない。でも、ここでも「いいんじゃないの」を使ってみたらどうだろう。「文章が下手だから練習しようかと思う」ときたら「練習してもいいんじゃないの」である。「練習してもうまくならないかもしれない」けれど、その言葉に返ってくる「うまくならなくてもいいんじゃないの」は、行動をしようとした自分の肯定である。


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