(掌編)家庭教師

 「それはね」
 参考書を差す有さんの、細くて長い指が、私の手に少し触れた。私は平静を装った。有さんは何も気にしていないみたいだった。私の頭の中では、有さんの細い指がお姉ちゃんにどんな風に触れるのか想像しそうになって、慌てて打ち消した。
 「え、なんでそうなるの?」
 なんとなくは理解していたけど、もう一度尋ねた。詳しく説明してもらおうと思った。そうすれば、もっと長く有さんの声が聞ける。
 「ええと……この公式はわかる?」
 「うん」
 うちの居間で、私は数学の参考書を広げている。普段は居間で勉強なんかしない。でも、有さんに数学を見てもらうことになって、自室に二人でこもるわけにはいかないだろうと思ったのだ。お姉ちゃんの手前。
 「ちょっと休憩したら?」
 お姉ちゃんがポットやティーカップをトレイに載せて持ってきた。私はノートや参考書を一旦閉じる。トレイをテーブルに置いたお姉ちゃんは、再び台所に向かい、今度はケーキの箱とお皿とフォークを持ってきた。
 「ケーキ買っておいたの」
 「お姉ちゃんがケーキ食べたいだけでは?」
 「まあまあ、休みましょう」
 そう言って箱を開ける。かわいい作りのケーキが5個、並んでいる。
 「有さんからどうぞ」
 と、お姉ちゃんはケーキの箱を有さんに向ける。
 「いいの?」
 「先生だもの」
 有さんはシンプルなレアチーズケーキを選んだ。お姉ちゃんはベリー系っぽいのを選んだ。私はチョコレートケーキをもらうことにした。ケーキは家族みんなが気に入っている店のものだった。あと二つは、両親の分。

 日曜の午後、お姉ちゃんと有さんはデートにでも行きたかっただろうか。私が、数学を教えてほしいなんて頼んだから、それを邪魔してしまっただろうか。これでも罪悪感はある。
 「明、最近勉強熱心ね」
 「熱心っていうか、授業ついていけないと困るもん」
 「有さんが理系でよかったね」
 有さんは、お姉ちゃんと同じ会社で、WEB関係のプログラマーをしている。それを聞いて、ならば理系だろう、じゃあ数学もできるのではないか、と尋ねたのだ。
 実は、そこまで数学の勉強に困ってるわけではない。そこそこの点数は取れているし、間違えたところも、参考書などをよく読めば理解できる。
 なんでもよかったのだ。有さんと接する時間を増やせれば。

 お姉ちゃんが有さんを家族に紹介してくれた時に、かっこいい、と思ったのだった。しばらく話をして、穏やかな雰囲気に、ますますいい、と思ったのだった。でも、恋人を家族に紹介するなんて、結婚前提のお付き合いというやつだし、お姉ちゃんと男性の趣味が似ていることを認識しただけで、私のほのかな想いは終わらせなければいけなかった。

 「明は進路決めてるの?」
 明。お姉ちゃんと一緒の呼び捨てでいいよって頼んだのだ。
 「できれば、都会に行ってみたいな、って」
 「あ、初耳」
 お姉ちゃんにも話してなかった。そうだ、最近決めたんだもの。有さんみたいに素敵な人は、分母の多いところで探したほうがいいだろうと。
 「いいね。僕も東京とか行きたかったな」
 有さんはずっと地元の人なんだけどね。
 「東京かあ……」
 「お父さんとお母さん、なんて言うかわからないけど、私は応援するね」
 「ありがとう!お姉ちゃん」
 ケーキを食べながらの団らん。小さくフォークで切ったピンク色したケーキを、かわいらしく口に運ぶお姉ちゃんを、有さんが優しい目で見てた。それを見てたことに気づかれて、有さんは私のほうを見て、微笑んだ。
 私にまで、そんな優しい表情、見せなくていいのに。それはお姉ちゃんだけのものにしておけばいいのに。

 「さて、じゃあもう少し進めようか」
 食器をみんなで台所に下げて、有さんと居間に戻ってきた。お姉ちゃんは台所で食器を洗っている。
 「はい、お願いします」
 ぺこりと頭を下げる。こんな機会を、あと何回作れるのだろう。もし結婚の準備が進むのなら有さんは忙しくなるだろうし、私の進路希望によっては、塾に行くことになるかもしれない。
 最初から、諦めなきゃいけない恋なんだ。
 せめてあとちょっとだけ、至近距離から見つめていてもいいよね?
 「このページからだったね」
 「ここだよ」
 ページをめくる有さんの手に、偶然みたいにして触れた。

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