(短編)明日、また

 明日、また朝が来るかどうか、わからない。
 絶対、なんてあるのだろうか。

 絶対なんてない、という絶対もないことになるけれど……。
 歯切れの悪い考えが出たところで、考え事はいつも中断する。頭の中に白い煙が充満して、周りが何も見えないように。  答えが見つからない、不安な状態を続けることに困って、私は問いかけを投げ出してしまう。

 小さい頃の私は、また朝が来るかどうかわからなくて、怖かった。
目を閉じた真っ暗闇のまま、私が動いている毎日も、暗闇に包まれてしまうのではないかと思えてならなかった。「おはよう」と言えなくて、お父さんとお母さんと友達の顔が見えなくて、朝ご飯は食べられなくて、外に出かけることもできない。もし、と疑いが始まると、恐れは次々に生まれた。
 目を閉じてはいけない、朝が来ないかもしれないから。降りようとする瞼の重みと、私は毎晩必死で戦っていたのだ。
 しかし、眠気という強敵に勝てた試しはなかった。いつのまにか眠ってしまった自分を恥じながらも、カーテンの切れ間から差し込む明るい光に、ほっとしたのだった。

 今だって、朝が来るかどうかわからないけれど、それが怖いわけじゃない。
 むしろ、暗闇の中にいることで私は安心している。
 朝が来ないかもしれない可能性を、希望している。

 このまま、目が開かなければいいのに。なんで起きなきゃいけないのかな。なんで動かなきゃいけないのかな。なんで、生きなきゃいけないのかな。
 光の眩しさに開くことをためらわない瞼を、きつく閉じようと試みる。不快な電子音を鳴らす目覚まし時計へ手を伸ばし、そちらを見もせずにアラームを解除する。六月の蒸し暑さを堪えて、布団を頭から被る。母の呼び声が近づいてくる。ドアが開く音がする。
 母に布団をはがされて、布団の重みから解放され軽くなった体を感じる。抵抗を諦めて、私は上半身をゆっくりと起こす。顔に覆い被さってきた髪を避けた右手で、頭を抱える。朝が始まってしまった。


 一限目が終わると、鞄を持って席を立った。「どうしたの?」とは、もう誰も聞かない。 みんな、昨日の自分に関する報告作業に忙しくて、その報告会の輪に入ろうとしない私にまで遣う気はないのだ。私も、アイドルの話とか服の話とかテレビの話とか彼の話とか、どうでもいい。
 この学校に来てから二ケ月の間、何度も考えた。たわいもない会話がどうでもよくなってしまったのは何故だろう。私のせいなのだろう。努力が足りなくて、行きたい道に進めなかった私のせい。

 保健室に向かい、気分が悪いので休みたいと言うと、若い養護教諭は今日も作り笑顔で対応してくれた。そろそろ小言の一つも言われるかと覚悟した。何か言いたげな表情ではありながらも、彼女は奥のベッドを整え、私をそこへ促した。
 「良くなったら授業に戻ってくださいね」
 「はい」
 スカートを整えながら横になって、気のない返事をする。彼女がカーテンを閉めるまで、軽く目を閉じて眠るふりをする。少しだけ休んで、でも私の気分は回復しなくて、早退するのだ。


 今日は書店に行ってみる。本は好きだから、本棚を見ているだけで、随分長い時間を過ごせる。まだ昼にもならない時間に、母が居る家へ帰るのは、少し心苦しいから。上の階から順番に、気が向いた棚を見て歩く。何冊かの本を、手にとり、戻しを繰り返す。
 文庫本の置いてあるフロアにやってきた。背の高い棚の間の、左右に何があるのか確かめながら、ゆっくり歩く。私の他に客はほとんどいない。
 一冊の文庫本の背表紙に、目が止まった。視線の向かう先には、興味を引く二文字があった。その正体を確かめようと、そっと手を伸ばす。
 背後に気配を感じ、振り向いた時には、黒色のエプロンが見えた。私の手がその誰かに触れた。手にしていた文庫本が落ちて、床で軽い音を立てた。
 「すみません。大丈夫ですか?」
 男性の声がした。反射的に後ずさり、声の主を見上げた。黒縁の眼鏡をかけた、真面目そうな青年の顔があった。大学生のアルバイトだろうか?
 落とした本を拾おうとして、私の手は再び彼に触れた。あ、と小さな声が聞こえた。慌てて引っ込めた私の手の先で、骨ばった手の長い指が文庫本を丁寧に持ち上げた。
 「ごめんなさい。落として…」
 「この本」
 表紙を確かめる彼に、しまった、と思った。あの単語が入ったタイトルの本に興味を持つような人物だと、たとえ赤の他人にでも思われたくなかった。恥ずかしい。でも同時に、体裁を気にする自分が馬鹿馬鹿しくもなった。平日午前の時間帯に書店という場所にはいるはずのない、制服姿の女子校生が今更、何をうろたえているのだ。開き直って、私は彼の言葉の続きを待つ。
 「面白いですよ」
 意外な言葉に、私は驚いた顔をしたのだろうか。うっかり呟いた独り言に気付いたかのように、彼はまた、あ、と小さく声を発した。一瞬、困ったような顔をした後、彼は文庫本を、迷わず元の場所に戻した。こちらに軽く頭を下げて、彼は棚の向こうに歩き去った。

 「面白い、のかあ……」
 棚に戻った本の背表紙に含まれた二文字、それは「自殺」。
 本の選択を軽蔑されたわけではないことに、安堵した。彼は私の興味に同意してくれたのだ。お勧めされてしまったからには、内容くらいは確かめようと手を伸ばしたところで、ふと視線を足元に落とす。
 小さな長方形の銀色が落ちていた。プラスティックを表すマークが見える。薬のシートのようだ。恐る恐る指先でつまんでみる。二つの突起が指に触れた。
 先程までは無かったはずだ。ぶつかった時に落としたのだろう、書店員の物と考えるのが自然だ。ならば返すのが当然だ。つまみあげた堅いシートの感触に、うしろめたさを感じて落ち着かない。私が手にしていてはいけない、そんな物のように思えた。これは、何の薬なのだろう?疑問に思った直後、私は直感した。
 手にしてはいけない物を手にしてしまった。手に入らない物が手に入ってしまった。薬をつまんだ私の指は、スカートのポケットへと向かっていた。


 掌に載せた、銀色の堅いシート。その中に二つ並んだ、白く丸い錠剤。
シートの裏には薬の名前らしき文字が記されていた。部屋に戻り、ノートパソコンを起動してネットで調べると、その正体はすぐにわかった。薬の効用、どんな症状の治療に使われるのか、そして副作用。指先に載る程の小さな塊が人に与える影響を、想像する。この一粒で、救われる人がきっとたくさんいる。
 救われる人、と考えたところで私は、書店員の顔を思い出した。物静かで賢そうな人だと思った。賑やかなことが得意そうには見えなかった。何か悩み事があったら、一人で抱え込んでしまう人じゃないかな。外見からの勝手な思い込みだが、間違ってはないんじゃないかな。自らを殺す物語を読む、あの人。
 罪悪感が押し寄せてくる。薬を無くして、彼は困っているかもしれない。服用することで彼は、ひとときの安心を得ているかもしれないのに。
 シートから、左手の上に、薬の一粒を押し出した。掌の真ん中に落ちた点。落とさないように、掌を持ち上げて、顔を近づけて、唇を寄せる。吸い込まれるように錠剤は私の口内に通された。突然の来客に驚いた喉は、慌てて唾を飲み込んだ。 喉の奥にひっかかってから、異物は私の体内に紛れ込んだ。掌に、まだ何かが残っているような感覚が拭えなかった。それを振り切るように手を払い、私はベッドに倒れこんだ。


 閉められたカーテンの向こうは良い天気なのだろう。部屋はぼんやりと明るかった。眩しい光が漏れているなと思ったそれは、机の上のノートパソコンだった。
 あのまま眠ってしまったのだな。頭がぼんやりとしている。いつ頃眠りに落ちたのか見当もつかない。体がだるくて、起き上がりたくない。怠惰に寝がえりをうって、壁時計を確認する。十二時を過ぎていた。
 そういえば、母に起こされたような気もする。いつもの朝のように。頭の中に、もくもくとした灰色の煙が溜まっているようだ。振り払いたいのだけれど重たい。視界も悪い。ああ、頭が痛い、とか、母に言い訳をしたような気もする。よく覚えていない。下に降りて母に確認しようかと思う気持ちよりも、何もしたくないと思う倦怠感が、明らかに勝っていた。

 排気ガスに包まれているみたいだ。息をするたびに苦い空気を吸ってしまう。咳込みたい。吐き出してしまいたい。一度吸い込んだ黒い空気は私の肺にしぶとく居残り、外に出ようとしない。不穏な流れが体の中をぐるぐる回り続けている。
 こんなはずじゃなかった、なんて言えないのは承知の上で、でも口から洩れてしまう。
 目を開かずに、起きずに、動かずに、生きずに。何も考えたくなかった。考えることからは苦しみしか出てこなかったから。だから、そこから逃げさせてほしかった。何か別の力を頼れば、それが簡単にできるのかと、思ってしまった。


 気分が悪くて、昼ご飯は食べられなかった。私の様子を見て母は、仮病ではないと判断したようだった。今日はゆっくり休みなさいと心配されて、申し訳ない気持ちになる。だってこれは、副作用なのだ。
 これくらいのことで薬の効果が薄まるのかどうかわからないけれど、水をコップに何杯も飲む。ぬるい水道水なのに、喉にありがたく感じる。いつもより、口の中が渇いているかもしれない。コップを持ってのろのろと部屋に戻ると、机の上の銀色が気になった。一粒残った錠剤が。


 犯人は犯行現場に戻る、って言うよなあと思いながら、書店の自動ドアを通過した。母がテレビのワイドショーを楽しんでいるうちに、そっと家を抜け出して、なんとかバスに乗ってここまできた。頭はまだぼんやりしている。いらっしゃいませと声をかけてくれるレジの店員さんに他意はないだろうが、知られたくない場面を目撃されてしまったようで、そちらを見ることができない。
 階段を上ったら、男性がいた。新刊の台にある文庫本を整理しているようだ。黒いエプロンが動いている。後ろ髪は襟足が伸び気味だ。心の準備ができる前に、彼はこちらを振り向いた。口が、あ、の形をした。両手にしていた文庫本をそっと、山になった本の上に積み重ねた。
 「どう、でした?」
 一呼吸おいて、彼は私にそう尋ねた。眼鏡の奥の瞳は笑っていない。でも、怒っている風でもない。
 「え、あ、その…。ごめんなさい」
 謝罪の言葉しか持っていなかった。何がどうだったかと聞かれているのかは理解できたが、質問への答えは用意していなかった。肩から掛けたバッグの内ポケットに手を突っ込んで、銀のシートを急いで引っ張り出す。何も言葉を添えられずに、彼に向けて差し出したら、ぶっきらぼうになってしまった。
 「いいですよ」
 彼は右手を左右にひらひらさせて、受け取らない姿勢を示した。とはいえ、そうですかと手を引くこともできない。
 「あの、このお薬がなくて昨日は困りませんでしたか?」
 「平気です。まだまだありますから」
 そこで彼がほんの少し、両方の口角を上げた。笑ってみせようとしてくれたみたいだ。ぎこちなかったけれど。あれ、と思った次の瞬間には、真面目な顔に戻って言葉を続けた。
 「僕のことより、あなたの体調のほうが心配です」
 「……だるくて、気持ちが悪いです」
 でしょうね、と呟いて、彼は周りを気にするそぶりを見せた。そうだ、彼は仕事中なのだ。邪魔をしてはいけない、ここを早く離れなくては。
 「ごめんなさい」
 今度はしっかり頭を下げた。ちゃんと謝っておきたかった。
 手に入らない物が手に入ってしまったことを、幸運だと感じてしまった。何も知らないから、過剰に期待した。私も楽になれるんじゃないかと思った。その一粒にどれだけの力があるかを知らずに。その一粒にどれだけの救いが求められているのかを、考えもせずに。
 「わかってくれたなら、いいんです」
 丁寧な言葉遣いで、彼はしっかりと話してくれた。こんな、子供相手に。
 軽く頭を下げ、この場を離れようとして彼は、振り返ってまた、笑ってみせようとしてくれた。そして、言葉を加えた。
 「それは、持っていてもいいですから」
 多分、これは、お守りなのだ。


 鞄のポケットから薬のシートを取り出して、机の上に置いた。それから掌に載せてみる。
 昨日感じた重みとは、別の重みがある。恐怖は消え、安心が芽生えた。
 これは依存の一種なのかもしれない。それでもいいと思う。
 逃げたくなった時に、私はこの薬を掌に載せるだろう。でも口へと運ぶ前にきっと、あの人の顔を思い出す。彼の、不器用な、だけど誠実な笑顔を思い出す。
 薬を化粧ポーチにしまい込む。そしてベッドに入る。体の不調は和らいでいたけれど、やけに疲れを感じている。今夜はよく眠れるだろう。

 明日、また朝が来るかどうか、わからないけれど。
 また朝が来ますように。
 明日は、本を買おう。あの人が面白いと言った本を。

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