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ずれから生まれる会話の広がり

例えば誰かに「それは赤ですか?」と尋ねられたら「はい、これは赤です」と答えるのが、正解なのだろう。ここからは「この赤はカーマインという名前なんです」などと、赤の詳細について会話を続けていくことができる。これは会話が「深まる」例だろう。

「それは赤ですか?」と尋ねられて「はい、これは赤です。が、赤紫かもしれません」と返事をしたらどうだろう。それが赤だと思って尋ねたほうは「それは赤紫?」と思うのではないだろうか。よって、正解の返答ではないのかもしれない。ただ、「この赤はローズという名前で、RGBカラーで表すとB(ブルー)の値が95なんです。青が入っているから赤紫とも言えるのではないでしょうか」と、赤の話題だけではなく、赤紫、そして青の話題にも「広げる」ことができる。

上記したようにわかりやすくはないが、人と人の会話は、こんなふうに「ずれ」ていくことがよくあると思う。「赤」という返答を期待していたのに「赤紫」と言われる。しかしこの些細なずれが、話し掛けた時点では予想しなかった会話を生み出すことになる。赤の話をしたかったのだけど、赤紫について話してみたら面白かった、みたいな感じだ。

適度なずれは、個々の認識は異なっているのだということを思い起こさせてくれる。一つの何かに対して、一つしか正解がないわけではない。様々な見方があり、それぞれの回答があるから面白い。なので、ちょっとくらいのずれは気にしないで、ずれた結果としての会話を楽しんでいけたらいいのではないか。

しかし「赤」という返答を期待して「青」と言われると、それは認識が違い過ぎる、ずれ過ぎているということになって、会話も続けにくいと思う。これをあえて行うのはいけない。それは天邪鬼というものだ。

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