見出し画像

心が動いた

ふとしたことで涙があふれた。

世の中には、自分や誰かのために懸命に頑張っている人がたくさんいる。彼らの進む先には困難も多いことだろう。傷付くこともあるだろう。けれども、彼らは歩みを止めないのだ。信念、夢、希望、目標、幸福、安寧、それぞれが心に抱く何かのために行動を続けている。それなのに自分はどうだ?何もできない、しようともしていない、自分が情けなくてたまらない。

本当は私は、特別な人になりたかったのだ。だけどそんな存在に、どうやら自分はなれないようだ。頑張ることができないのだから、当然のことである。叶わないのなら、もうどうでもいい。きっと私は諦めきってしまっていたのだ。

だけど、特別な人ってなんだろう。具体的にどういう人のことを言うのだろう。自分に問うても答えは出てこない。曖昧にしか考えていなかったことが明らかになる。よくわからないものには、なろうとしたってなれない。

だからここで、目標を立て直すのも一つの方法である。自分が憧れる理想像をはっきりと描いてみることができれば、そこに至る道も見つけられるかもしれない。しかし、そうしない方法を選んだほうがいいように、今の私は思う。それは、特別な人になどならなくてもいい、と決めることである。

何も特別ではない私が、今、この瞬間も、自分を情けないと思いながらも、生きている。それでいいのではないだろうか。明日も多分、くよくよしながら一日を過ごす。でもその時間の中には、喜びがあるかもしれない。悲しみもあるかもしれない。様々な感情と共に、多分、明日も生きていく。迷ったり悩んだりしながら。そんなふうに心を動かす権利は、誰にでもあるはずだ。

何かが特別だから何かが許されるわけではない。何も特別ではなくても、許されるなどと他人の意向をうかがわなくても、誰だって等しく、考えたり、動いたりすることはできるのだ。もちろん、社会の規則を守った上でだが。

素晴らしい人々のように動くことはできなくても。彼らを応援することはできるかもしれない。小さくとも自分にできることがあるかもしれない。理想通りに物事は進まない。けれども、理想を持ち続けることは自由だ。そして、それを諦めるのもまた、自由だ。新しい理想を探したっていいし、何もしないで過ごしてもいい。

けれども今の自分が悔しくて涙が出るのであれば、何か少しでも動かなければいけないのではないか? 特別素晴らしいことや、難しいこと、褒められることではなくても、できることがまだあるのではないか?

お気持ち有り難く思います。サポートは自費出版やイベント参加などの費用に充てます。