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感動を煽られたくない

人を感動させられる作品は素晴らしいと思う。泣かせるだけではなく、笑わせたり、悲しませたり、時には考えさせたり、怒らせたりなどもできる力を持つ作品がある。それはいいことだ。そして、何か作品を見て「感動した」と思うこともいいことだ。

ただ「この作品は感動しますよ」と宣伝されるのは、いいことだとは私には思えない。なぜか。私の感情の動きは私にしかわからないからだ。

ひねくれているなとは思う。「感動しますよ」とおすすめしてくるのは、「感動したいです」と思っている人が多いからだろう。需要があるから供給されているのである。

でも、感動するかどうかは自分で決めたい、と私は思う。おすすめしてくれるのならば、どこがおすすめポイントなのかを端的に説明してくれればそれでいい。その情報を元に、その作品を受け取るかどうかを判断させてもらいたい。

とはいえ、とても端的な説明とは言えない、うまく言葉になっていないような感想から、その人が感動したのだという強い気持ちが伝わってくることもある。そういった感動の表明と、「感動しますよ」宣伝の違いは何なのだろうか。

それは「属人性」にあるのではないか。この人がそう感じたのかと思えるような、興味を引かれる人の感動は、信頼できそうに思える。例えば、好きな人が「感動した」と言っている作品は気になる。宣伝で謳われている感動は、その発信主が誰なのかがわからない。

先に書いたように、私の感情の動きは私にしかわからない。誰かの感情の動きは、その誰かにしかわからない。感動とは個人に宿るものだ。誰かの感動が誰かに伝播して、その人を感動させる。一般化された感動の表明からは、個人個人の感情の動きを受け取りにくいのではないか。



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