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【1989年100日旅】100日目。サンフランシスコ、そして帰国。

1989年7月14日はこの旅の観光最終日。100日目。からりとした夏日。サンフランシスコを父抜きで観光するのは不安だったのか、日本人向けのガイド付き観光バスに乗り、片側5車線の高速道路をひた走る。青空も、沿道の建物も並走する車も、何もかも横幅が大きく、おおらかでゆったりとした雰囲気。行き先はモントレー。

モントレーは19世紀の低い建物が並ぶ小さな港町。かつてイワシ漁で賑わったこの街をスタインベックが「缶詰工場」に描いている。アメリカの古き良き時代を思わせる、映画のセットのような街並み。大規模なファーマーズ・マーケットの野菜や果物の鮮やかな彩り。

その後、山道を通ってミステリー・スポットへ。磁気異常現象により重力や視界が歪み、鳥や動物が近寄らない場所という触込み。傾いて建つ家、坂を転がり上がるボール、傾いて揺れる振り子、手を使わずに登れる梯子等、ビックリハウス的なアトラクションを子供らしく楽しんだ。

次の滞在地がどんな場所かまったく想像できなかった3ヶ月間が終わる。ネオンサインが輝き、人々が飲み笑う、サンフランシスコの明るい夏の夜。クラムチャウダーを食べて、翌朝のフライトに備えて早く寝た。「家に帰り着くまでが旅である」と日記。


翌日7月15日午前中に空港へ。少ない衣服と靴を使い倒したのが災いしてか、片道切符を使って一家で数カ国を流浪してきたためか、アメリカ入国審査時は子供の私に対して「結婚していますか?」「お酒は持ち込んでいますか?」等と冗談を言いながらも、しっかり調べられた。しかし出国はあっさり。拍子抜けした。

乗り込んだ飛行機は日本航空。モデルのようなクールビューティーのCAばかり。バブル期だったからかCAは多く、あちこちで客室の様子を観察していた。離着陸時にCAが座る席の正面に座席がとれたので足元はのびのびとしていたけれど、彼女らの目力に気圧され、おとなしく過ごした。

この旅では、共産主義国と資本主義国を行き来した。共産主義国では物価差があるのとビザが円滑に取れるようにと高級なホテルに滞在する必要があったので、プチお金持ち気分。でも資本主義国では共産主義国だったらもっと安いと締まり屋になり、加えて使い倒した衣服のために貧乏気分。いずれにしてもヨソ者でマイノリティで「普通」が足りなかったと機内で気づいた。

JALの日本語機内放送と周囲の黒髪に、自分の中の「普通」を見出し、妙に安心し、同時に少し寂しくも感じた。旅の残り時間はあと少しなのに、機内食では我慢できずに和食を選択。家と違う赤味噌のお味噌汁も、身体中に染み渡るおいしさ。日付変更線で借りる一方だった時間を一気に返した。

飛行機は17日に成田空港へ到着。バスと電車を乗り継ぎ、3時間以上かけて埼玉の家に辿り着く。乱雑な我が家の、懐かしいにおい。胸いっぱいに吸い込んだ。どうやって知ったのか、帰宅後すぐに友達2人が遊びに来てくれ、大感激。夜は久しぶりに自室で一人で大の字に寝て、旅の終わりを実感した。

この旅の1ヶ月後にタリン(現エストニア)でソ連からの独立を求める「人間の鎖デモ」が起き、4ヶ月後にはあれほど強固に見えた東ドイツのベルリンの壁が崩壊。同月ビロード革命が起き、チェコスロバキアはその後チェコとスロバキアの2国に分かれた。翌年、東西ドイツが統一し、その翌年にはソ連が崩壊。私が行った共産主義の国々はあっという間に消えてしまった。

こんな感じの100日旅。長らくお付き合いくださり、ありがとうございました!

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