見出し画像

パパ、今までごめん。いつもありがとう。

たったいま沖縄旅行から戻り、東京の自宅にてPCを開き、この文章を書いている。きっとこの沖縄旅行は、何歳になっても忘れないだろう。今の気持ちを、記しておきたい。

「なんで結婚しちゃったんだろう?」

ビリギャル原作や私の本を読んでくださった方、または映画「ビリギャル」など見てくださった方はなんとなくご存知かもしれないが、私の両親は「なんで結婚しちゃったんだろう・・?」と不思議なくらい、仲があまり良くない時間を長く過ごしてきた。幼い私には、父がいつも母を強い口調で責めたて、母がかわいそうに見えてならなかった。私はいつも母をかばった。父はひどい人間だ、と思った。私が守らなきゃ、と思っていた。

私は中学3年生でかなり強めの反抗期を迎えた。父を「くそじじい」と呼び、毎日のように喧嘩した。「ああちゃん(母)に指一本触れるんじゃねえよくそじじい!!!」と突っかかる私に、「てめえ!誰に向かってそんな口きいてんだこのやろう!!!誰の金で飯食ってると思ってんだ!!!!!」と顔を真っ赤にして怒鳴る父。私は、「頼んでねえよ!!!!」と毎晩家を飛び出した。そして、母が「さやちゃん、ごめんね・・」と迎えに来るという、非常に非効率なことを繰り返していた。私は、父が憎くてたまらなかった。

ひとつ屋根の下で分かれる子育て方針

私には、2歳年下の弟がいる。彼が生まれたとき、父は大層喜び、「俺はこいつをプロ野球選手にしてみせる!」と意気込んだ。小学校に上がる頃には、父がボランティアでコーチを務める少年野球クラブチームに強制的に入らされ、一番バッター、ショート、エース、キャプテンとなった弟は、眩しかった。羨ましかった。とても、キラキラして見えた。「なんで私は、女の子に生まれちゃったんだろう」と、ずっと思っていた。

毎週末、父は弟の野球の練習や試合に付き添った。そのためか、父と遊びに出かけたり、旅行に行った記憶がほとんどない。父はとにかく、弟の野球の英才教育に必死だった。「とにかく俺の言うことだけきいていろ、必ずおまえは幸せになれる」と弟によく言い聞かせていた。

母の子育て方針は、父のそれとは真逆だった。母は、「ワクワクすることを、自分で見つけられる人になってほしい。それだけで、いい。」という人だった。そこでも父と母は激しくぶつかった。結果、弟の子育ては父が担当、私と6歳下の妹は母が担当することとなったようだ。こうして私達3人きょうだいは、同じ家に住みながら、真逆の子育て方針のもと、育った。

結果、ビリギャルで描かれているように、弟は野球から逃げ出し、グレた。高校を中退し、ヤンキー集団に仲間入りした。私も途中かなりグレたが、その後紆余曲折なんとか慶應大学に合格した。妹は小学校の頃不登校だったが、高校から海外に進学し、その後上智大学に合格。「完全にコントロールする子育て VS 信じきる子育て」の勝負は、(学歴だけでは判断できないが)、母に軍配が上がった結果となった。父はいさぎよく、「俺が間違っていた。息子には申し訳ないことをした」と認めている(偉い)。
※その後、弟は地に落ちた自信と自己肯定感を取り戻し、現在は父の会社で跡継ぎ候補として立派に働きながら、二人の息子を育てている。

母の家出

しかしその後もやはり、母と父はあまり仲が良い夫婦とは言えなかった。母は何歳になっても父を怒らせる天才であるようだったし、父も感情が高ぶると抑えきれなくなる性格で、ふたりは見ているこちらが嫌になるくらいの頻度で喧嘩を繰り返し、いつも必要以上に傷つけあった。私は何度も、「もう子どももみんな自立したし、離婚したら・・」とふたりに提案した。

しかし、去年、なんだか流れが変わった。母が、大型の家出をしたのだ。実に3ヶ月、たぶんほとんど離婚を決意して荷物をまとめて家を飛び出した。我々家族も、いよいよか、と覚悟した。母は、大阪の実家と東京にある私と私の妹宅を行き来して、父と離れる時間を、たぶんこの33年の結婚生活で初めて過ごした。

このとき、父もおそらく、覚悟した。母はこのまま帰ってこないかもしれない。母のいない未来を、おそらく具体的に想像したのだろう。父は、何度か私達に連絡をしてきては、「ああちゃんは、元気なのか?」ときいた。「元気だよ」と答えると、「そうか、よかった」と。なぜこの人は、もっと素直になれないのだろう、と泣きたくなった。私はきつい言葉で父を責めた。「パパ、このままだと本当に一人ぼっちになっちゃうよ。どうしていつもそんななの?パパのせいで、色んな人が傷ついているんだよ!いい加減にしなよ!!!」と。本当に、やるせない気持ちだった。

3ヶ月後、母と父は、共通の友人に立ち会ってもらい、話し合いを行った。そこで父は母に謝り、どんな事があっても、声を荒げて怒らないように努力する、と誓ったのだそうだ。母は、父がいる名古屋に戻った。

母曰く、それからというもの、父は全く怒らなくなったのだという。「前だったらね、絶対パパが怒っちゃうことを私がやってしまっても、パパは怒らないんだよ」と母が言うのだ。私達は、本当に人ってそんな急に変われるものなのか・・?と半信半疑だった。

父が嬉しそうなのが、妙に、嬉しかった

今回の沖縄旅行に話を戻そう。私が今年3月に米国の大学院に合格し、今年の夏にニューヨークに引っ越すことが決まってから、母がどうしてもみんなで旅行に行きたい、と言い出した。それで、妹カップルと私の両親、そして私と私の夫の6人で沖縄宮古島に3泊で行ってきた。

父が宮古島に住む友人に相談しながら、ホテルやレンタカーの手配をしてくれ、梅雨真っ最中にもかかわらず奇跡的に晴れの日にも恵まれ、わたしたちはとっても楽しんだ。

最終日の夜、母は別の部屋で先に休み、それ以外のメンバーでお酒を飲んだ。私の夫や妹の彼が「お父さんはなんで30年前、起業しようと思ったんですか?」「その前は、何してたんですか?」など、普段わたしたちがもはや今更しないような質問をしたことをきっかけに、父が珍しく昔のことをレモンサワーを飲みながら話しだした。私はこのときはじめて、父がなぜ私が生まれた年に脱サラして、小さな車販売会社を興したのか、父の口から直接きいた。

父の父(私のおじいちゃん)が、ボーリング場やボーリンググッツの販売などをメインとした会社を経営していたが、ボーリングブームが終わり破産した上、親友に騙されて(当時の!)1億5千万円の借金を背負わされ、ストレスで癌になり、数年後に若くして亡くなったこと。その肩代わりを、大学教授だった祖母が、何十年も一生懸命に働いて借金返済に努めてきたこと。祖母だけでは完済できそうにないので、サラリーマンの手取りでは足りないと悟った父と父の弟(私の叔父)が会社を興し、事業を始めたこと。そしてその十数年後、やっと完済したこと。

父はいつになく、いきいきと色んな話をしたし、嬉しそうにみんなの話をきいていた。12時を回る頃、部屋から出ていこうとする父に「どこいくの?」ときくと、「ああちゃん寝たかな、と思って、ちょっと見てくる。」と言う。なんだ、めちゃめちゃまっすぐに、表現するようになったじゃないか。娘としては少し照れくさいと言うか、そんなんあんまり見たことがないので反応に困る。父は旅行中一度も怒らないばかりか、終始この上なく上機嫌で、よく笑った。私はそれが妙に、嬉しかった。

帰りの飛行機は、父と母だけ名古屋行きの別の飛行機に乗った。父は、私と私の夫のホテル代を、黙ってすべて精算してくれていた。俺からの選別だ。気をつけてアメリカ行ってこい、と。

本当は、寂しかっただけだった

帰り道、夫が「俺、さやかの家族好きだなあ」と言った。特に、さやかのお父さんが好きだと。私はこの夫の言葉に、ハッとした。

父はきっと、ずっと、こうしたかったのだろうな、家族に、こう思ってほしかったのだろうな、と気づいたのだ。みんなに、優しくしたかった。大好きだって、言ってほしかった。本当は、もっと色々世話を焼きたかった。みんなに、「パパ、パパ、ありがとう」と言ってほしかったのだ。それをさせてあげられなかったのは、私達だったのかも知れない、と思った。もっと早く、パパの話を聞いてあげればよかった。なんでもない話を、できたらよかった。そうすれば、もっと早く、母との仲も良くなったに違いないのだ。父が怒るのは、「寂しい」の叫びだった。

小さいとき、弟ばかりを気にかけているように見えた父。私のことなんて、どうでもいいんだと、私はすねた。いま、素直にこのときの私の気持ちを代弁するならば、パパともっと一緒に遊びたかったんだ。話が、したかった。そんな寂しさが、なんだか急に、埋まった気がした。パパだって、ずっと寂しかったのだ。パパのほうがきっともっと、長い間、孤独だったのだ。

そして何より、父があんなに怒るのは、母のことが大好きだからなのだ。父は、なんだかとても面倒くさいのだが、とっても繊細な人なのだ。だから、大好きな人に邪険にされたと思うと、自分で感情をコントロールできなくなり、悲しみや寂しさを怒りで過剰に表現してしまう人なのだ。しかし、そうすればするほど我が家では全員が母をかばい、父が悪者になってしまっていた。それで父は、余計に傷いた。「誰も、俺をわかってくれない」「俺はいつも一人ぼっちだ」と。

そんな父の寂しさを、今回の旅で、私はようやく理解できた気がするのだ。父があんなにずっと嬉しそうなのを、初めて見た気がした。もうきっと、「俺だけ家族でいつも、仲間はずれだ」とは、言わないだろう。みんな、パパが大好きなのだ。家族みんなで写真を撮るとき、「俺は幸せだなあ」と父が、ボソッと呟いた。

下地島空港17エンドにて

家族は、こうして成長していけばいい。最初から完璧なんかじゃなくていい。成熟するまで30年以上かかる家族だって、あっていいのだ。私の家族は、間違いなく、今が一番、幸せだ。母と父が仲良く笑っているのを見るのが、世の中で起こるどんなことよりも、なによりも一番、最高だ。

どうか末永く、幸せでいてくれ。大好きなパパと、ああちゃん。
いつもありがとう。

嬉しそうな父と、謎のポーズをする母ああちゃん



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?