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「ビリギャルは、元々頭が良かったんだよ。」

さやかちゃんは、元々頭が良かったんだよ。

ビリギャル本人として活動するようになって、何万回と言われ続けてきたこの言葉。ビリギャル原作が出版されて今年で10周年を迎えようとしている今でも、言われ続けてる。今週オランダで初めて会った人にも言われた。慶應に受かるまでは地頭悪いって言われてたから、突然全く逆のこと言われるようになってびっくりしてる。地頭ってそんなにすぐ変わるもんなの?

日本人は「地頭」という言葉が大好きだ。でも、この言葉が一体何を意味するのかをちゃんと言語化できる人に、あまり出会ったことがない。この「地頭」って一体、なんなんだろう。何を根拠に、人は地頭が良い、悪い、と決めたがるんだろう。

この話、講演でもずっとしてきたし本にも書いたしもうずっとずっと言ってることだけど、まだまだ伝わってなさそうだから、改めて私の見解をここに書いた。

「絶対ムリだし、やめときな」

私が高校3年生のとき、坪田先生(私の人生の師でビリギャルの著者)が突然しみじみと、こう言った。

「さやかちゃんはさ、このままいくと本当に慶應受かっちゃうんだろうなあ」

こんなに努力してる私が受かんないんなら、一体誰が受かるんだよ!と私だって思っていたので、「うんそうだね〜」と相槌を打った。

「でもさ、本当に君が慶應に受かっちゃったら、今”絶対ムリ”って言ってる君の周りの人たちはさ、なんて言うと思う?」

その当時、私が慶應に行くんだと周囲に言いふらすと、父、学校の先生、親戚、友人たち、その誰もが鼻で笑った。お前本気で言ってんのか?冗談だよな?と。その中で「絶対大丈夫!」と信じてくれた人は、母と坪田先生、あと、親友のえみとえりか。えみは「なんかさやかなら本当に行っちゃう気がする…!」と目を輝かせて「櫻井翔くんをいつか絶対に紹介して!」と言ってた(それは今も叶えられていない)。えりかは「慶應絶対合格!お前が行かなきゃ誰が行く!!」と男前な字で紙にでっかく書いて、くれた(勉強机の前にずっと貼ってた)。

K田っていう体育教師は、「おまえ慶應行くとか言ってるらしいな?おまえが慶應に行ったら、俺は全裸で逆立ちして校庭一周してやるよ」と笑った。卒業式に慶應の合格証書を持っていったら、「おまえこれ自分でつくったんだろ?暇だな」とまた笑われた(映画ビリギャルの最後のシーンで先生が全裸になるシーンは事実と少し違う)。

高3の担任には三者面談で「お宅の娘さんは慶應に行くと言っているのですが、このクラスは附属の大学にエスカレーターで上がっていくのが普通で一般受験は想定されていませんでですね…そしてその中でも娘さんは…なんと言いますかその…到底その学力では…」と母の前で汗かきながら全力で言葉を濁していた。母は遮るように「この子は慶應に行くので大丈夫です」と言い切って、担任は苦笑いしてまたなにかをごにょごにょ言って三者面談は終わった。

父には、「おまえが慶應に行けるわけないだろ?お前を塾に通わせる金なんて、ドブに捨てるようなものだから、俺は一銭も出さんからな!やりたきゃ勝手にやれ」と言われた。

こうしてみんなに笑われながら始まった受験。だけど、一生懸命頑張っているうちに、真剣に応援してくれる人も増えた。だから、私は坪田先生の問いに自信を持って、こう答えた。

「きっと、みんな喜んでくれると思う。よく頑張ったねって、言ってくれると思うよ!!」

しかし、坪田先生はこういったのである。

「残念ながらね、そうはならないよ。」


人は結果からしか判断しない

「断言しよう。君がもし、本当に慶應に受かったらね、周りの人は途端にこうやって言い出すよ。元々頭が良かったんだね、ってね。」

???

私は、そうかなあ?と思った。想像できなかった。私の友達はそうは言わないと思う、と反論した。学校の先生も父も、今はくそむかつくけど、私が頑張るのを見たら変わると、信じてた。

「じゃあさ、このシナリオを想像してみ?君がこのまま全力で頑張って同じだけの努力をして、慶應に受かるだけの実力をつけたとするじゃん。でも、慶應の受験当日、君が運悪く熱を出して、頭がボーッとしたりして実力が発揮できなくて、不合格になったとしようか。つまり、プロセスは全く一緒で、結果だけが違ったとする。そしたら周りの人はなんていうと思う?

ほら、どうせ無理だって言ったじゃん!って、みんな言うんだよ。

つまりね、人って、結果からしか判断しないんだよ。どれだけ下から這い上がってきて、死にものぐるいで頑張っても、そのプロセスなんてみんなはどうでもいいんだよ。

でもだからこそ、君に伝えておきたいんだ。君が「死ぬ気で何かを頑張って、これをやり遂げた」という経験をもっていること。それこそが、君の、一生の宝物になるよ。だから、周りの声は気にせずに、思いっきり走ればいいよ。」


先生ってろくな友達がいないんだなと思った。かわいそうな人だと、このときは、思った。私の友達は、そんな冷たいこと言わない!って、やっぱり信じていた。

先生が言った通りだった


それから7年後、ビリギャルが出版されてから、私が知ってる人も知らない人も、口々にいろんなことを言い出した。この子は地頭がよかっただけ。中学受験をしてるからずるだとか、英語の偏差値は元々62くらいあったらしいとか。

一番よく覚えているのは、ビリギャルが出版された直後に友人6人でハワイに行ったときの、友人の言葉だった。

「でもさやか、中学受験してるじゃん」「うちらは本、読まないよ」

別に読んで欲しいとも思っていなかった。彼女たちは、読まなくてもわかってくれてると、思ってた。でも、ネット上で匿名でなにかを言ってくる人たちと全く同じことを、友人たちまでもが、言った。

先生が、やっぱり正しかった。

結局多くの人は、結果だけを見て才能や地頭というものを決めたがるらしいということを、この10年でいやになるくらいよくわかった。

才能主義の脅威

私には、誰に何を言われても、揺るがないものがある。あのとき、もっと広い世界に出たいと夢見て、坪田先生みたいなかっこいい大人になるんだって誓って、だけど、悔しくて辛くて怖くて、毎日ちょっと気を緩めると涙が出てくるくらい自分を追い込んで頑張って、途中まじでもうやめたいと思ったときも、塾代を必死でかき集めてくれた母を思い出して踏ん張って、それで、自分の手で自分の世界を大きく広げることができたことを、私自身が覚えているから。よく頑張ったね!って、誰かに褒めてもらう必要なんてない。私が一番、わかっているから。

私にとってなによりもでかいことは、今もこれからも、その成功体験があるから、まあ私ならいけるっしょ!と、また新しいチャレンジができることだ。30歳超えて初めての留学に挑戦しようと思えて実現できたのも、過去の自分に背中を押してもらえたからだ。成功体験なくして、大きな挑戦はできない。坪田先生が言ったように、この体験は私の生涯の宝物になったんだ。だから、もはや地頭とやらが良かったか悪かったかなんて私にはわからないし、正直どっちでもいい。私は、失敗しまくりながらでも挑戦できる人生で、よかった。それだけ。

30代でようやく実現した留学生活はちなみに最高


だけど、この言葉を多くの人が軽々しく言うのが、どうしても許せない理由がある。

私に言っているその言葉を、あなたの周りにいる子どもたちもきいているってことを、忘れないで欲しい。

「なんだ、やっぱり成功するには元々才能が必要なんだ」「努力したって、最初から結果は決まってるんだ」

そういうメッセージが、子どもたちに伝わってしまっていることを、自覚して欲しい。

講演先で出会う親御さんたちが、口々にこう言った。「さやかちゃんはやっぱり頭がいいんですよ!うちの子は地頭が悪いから…」

お母さんがそういうのを、すぐ後ろでこどもが黙って聞いていた。一度なんかじゃない。こういう場面に、何度も出会った。私は、いつも泣きたくなった。その子の痛みが、伝染してくるようだった。私もかつては「地頭が悪い」と言われてた。でも、その言葉に根拠など、なにもなかった。それなのに、どうしてこの言葉はこんなにも威力がでかいのか。

あなたも地頭悪くなんか無い。やりたいことをなんでもやったら良いよ、とその子に言った。その子は、何も言わなかった。

地頭が悪い子なんていません

坪田先生は、「さやかちゃんは地頭が良かったですよ」と言い切る。でも、「あなたのお子さんも、地頭良いですよ。地頭悪い子なんて、いませんから」と、続ける。

学び方や感じ方はそれぞれ違うし、得意不得意ももちろんある。知識詰め込み型の勉強が得意な子もいれば、対話を通して言語化するのが得意で、そこから学びを吸収する子もいる。褒められたらもっと頑張れる子もいれば、叱られてこんちくしょうで頑張るほうが結果が出やすい子だっている。

みんなちがう。それなのに、社会が、親が、先生が、この十人十色の学び方、頑張れる環境がある中で、「こういう環境でこういう方式で結果を出せる子が賢い!」となぜだか勝手に決めつけて、そこにフィットしないと「頭が悪い」というラベルを貼っつける。そして恐ろしいのは、その子自身も、そう信じ込むのである。この信念は本当に強力で、その子から、エネルギーもパワーもモチベーションも自己肯定感も自己効力感も、いろんなものを吸い取っていく。

その子は次第に、なにをするのも怖くなる。自分にはなんの才能もないのだから。成功しているように見える人は、そういう才能があっただけで、自分が同じようなことができるとは考えてはいけないのだ、と、自分に言い聞かせて、動けなくなる。そしたらほれ見てみろと言わんばかりに、またあの言葉が降ってくる。

こんなの地獄だ。こんな環境で頑張れる子なんて、私はそういないと思う。少なくとも私だったら、絶対に何も成し遂げられない自信がある。

ビリギャルストーリーが本当に伝えたいこと

私が投稿したYouTube動画に、たぶん高校生だと思われる子からこんなコメントが付いたことがあった。

「ビリギャル見て俺も慶應行こうと思ったけど、元々頭がよかっただけなんだろ?無駄に夢見させんなよ」

大人たちが言う言葉を、子どもたちはちゃんと聞いている。子どもたちの未来に、無駄に蓋するようなことを、もう本当にお願いだから、しないであげて欲しい。

こどもが夢見て、何が悪いの?挑戦することは、失敗することは、そんなに悪いことなの?やってみなくちゃわからないのに、それなのに彼らに挑戦させないことで、一体だれが得をするの?無謀な挑戦させて失敗して傷つけさせたくないと大人がかばい続けるなら、その子好きな子をデートにすら誘えないよ。

人生はチャレンジの連続で、その規模は前に乗り越えたチャレンジの大きさで決まる。その過程でどうしても何度も失敗は経験するんだから、失敗しても立ち上がる力を養うために、なるべく子どものうちにこけまくっといた方がいいと私は思う。それをただの失敗と受け取らず、未来の自分の幸せのために必要だった!と本人が前向きに捉えられるかどうかは、そのときの大人がくれる言葉に結構かかってると思う。

子どもたちにとって、周りの大人がくれる言葉は、良くも悪くも、まじで大きな威力を持っていることを、大人のみなさんにはぜひ、自覚をして欲しい。それはもう、洗脳と言ってもいいくらい、子どもたちが子どもたち自身をどう捉えるかの基盤をつくってしまうのだから。

坪田先生の「才能の正体」という本に、こんな一節がある。

自分に合っていない、ふさわしくない場所でいくら頑張っても、物事は身につきません。「才能がある」と言われている人たちは、”その人に合った” 動機づけがまずあって、そこから”正しいやり方”を選んで、”コツコツと努力” を積み重ねている。

坪田信貴著『才能の正体』より

その子の能力が発揮できる領域と環境、そしてやり方が、必ずある。まだ本人と周囲が、それに気づいていないだけのこと。

まずは、近くの大人が子どもの能力を、信じてあげて欲しい。万人に当てはまる、夢のような環境や教育なんて無い。他人と比較する前に、その子自身を見てあげて欲しい。

ビリギャルは、ずるでも奇跡でもない。この話は、坪田先生と母のおかげで、私の能力が最大化するピースが本当に運良くピタッと揃って、今まで母以外誰も気づかなかった私の能力が、突然爆発したってだけだなんだよ。ほんのちょっとの違いで、全く違う世界線がここからはっきり私には見える。「地頭良い」なんて、きっと一生言われなかった。だから怖いんだよ。ほんとにちょっとの違いで、こんなに違っちゃうんだよ。

私が失敗したとき「すごいねさやちゃんまた一歩成功に近づいたね!」と言い続けたああちゃんのおかげで、私はこんなんになった。

結果じゃなく、プロセスを見てあげて欲しい。そして、小さな成長を見逃さず、認めてあげてほしい。失敗は、もっとうまくできるために必要なステップだと、本人が思える環境を作ってあげて欲しい。そしたら必ず、その子の才能が見えてくるから。

私の母と坪田先生がしてくれたことを、私はこれからもずっと、伝え続けます。これが、ビリギャルストーリーで本当に伝えたいメッセージです。


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