【小説】天使の話

白い砂。穏やかなさざ波の音。
これは天使が自殺する話。 
「天使」「人魚」「ケンタウロス」「D-4.4」「11次元感覚器」「ヨークルスアゥルロゥン湖」「真祖鳥」「顔認証」「飛行」「ツァイ・ジェン」「鶏と卵」「君に恋した記憶」

第一話 死にたがりのベラ

 目を覚ますと、ガラス張りの天井から青空が見えた。

 体が重い。背中のあたりに違和感があった。

「気がついたかい」

 ベッドの横には椅子があった。腰掛けて読書していた青年が、わたしが目覚めたのに気づいたのか、声を発した。

「……ここはどこ?」

「ここは僕の部屋だよ。道に倒れていた君を拾って来たんだ」

 読んでいた本から顔を上げずに、彼は答えた。

「……ありがとう」

「いいよ。どういう事情があるのか知らないけど、しばらくはうちで休んで行くといい。君、名前はあるの?」

「名前。わたしの、名前は……」

 うまく思い出せない。ここに来るまでの記憶が曖昧だ。

 思い出そうとすると、頭痛がした。

「わからない? それとも言えないのかな。いいんだよ、無理に言わなくて」

「いいえ。思い出せないの」

「そっか。倒れていたのを見つけたとき頭から血が流れていたから、一応手当はしたんだけど、そのショックで記憶が曖昧になっているのかもしれないね。羽の方はどうだい?」

「……羽?」

 彼にその言葉を言われて、背中の感触に意識が向く。

「……これは」

「何って、羽だろう?」

「……羽」

 自分の体を見る。

 痩せた腕。カラスの骨のような細い指。

 背中にある確かな感触。

「わたしは……人間なの?」

「人間ではないと思うよ」

 彼は本から顔を上げると、そう言った。

「多分あれじゃないかな。天使」

 天使。

 背中に回した指先が、白く滑らかな肌触りに触れた。

 硬く、しなやかなその羽は、血の通ったあたたかさを持っていた。


「驚いた。君は本当に飛べるんだね、ベラ」

「当たり前じゃない。そのためにこの羽はあるのよ」

 天井付近を漂うわたしを見て、青年は珍しいものを見たなあとうんうん頷いていた。

 わたしが青年の家で匿われてから、一ヶ月が過ぎた。

 彼の名前はトト。高層ビルの最上階に住むくらいにはお金持ちで、わたしを匿うのくらいなんてことないそうだ。

 彼の話によると、わたしが倒れていたのは高層ビルの間の路地で、まるで高いところから落ちたかのような怪我をしていたという。

 ここに来るまでの記憶は曖昧だが、状況から考えて、おそらくわたしは飛んでいたのだろう。

 もしくは、飛ぼうとした。

 そして、落ちた。


 彼はわたしに名前をつけてくれた。意味はわからないが、ベラという音は気に入っている。

 わたしは彼の用意する食事を食べ、彼の買って来る本を暇つぶしに読んで過ごした。

 食事を共にすることはなかった。仕事で忙しい彼は、いつも外で食事を済ませてから帰って来る。

 わたしは人間ではないのかもしれないが、初めから彼の言う言葉はわかったので、文字というものもすんなり頭に入ってきた。

 幼児向けの絵本から始まり、今では高度な学術書でも抵抗なく読むことができる。しかしわたしの興味は、もっぱら外の世界を映した写真集に向いていた。

 見渡す限りの草原に、果てのない海。宇宙から見たこの星は青いという。

 美しいものは好きだ。外の世界は人間の形をしていない者にとっては危ないとトトに教わったものの、いつしか外の世界に憧れが募って行くのを止められなくなっていた。

 空の見えるこの部屋と、トト。

 それがわたしの世界のすべてだった。


 二ヶ月が経った頃、わたしは彼の部屋で一冊の本を見つけた。

 人類の歴史について書かれた本だった。

 本によると、数百年前、トトたちは別の星からこの星にやってきて、繁殖を始めたらしい。

 当時この星を支配していたのは、トトたちにそっくりな見た目の生物だった。

 しかし知性こそあったものの、科学や文化はそこまで発達しておらず、トトたち異星人の科学力と兵力に、その生物たちはなす術もなく敗北した。

 そしてトトたちは、その生物たちを家畜として飼うことにした。

 発情期もなく、年中交尾して繁殖が可能で、雑食だったその生物たちは、とても育てやすく、増やしやすかった。

 こうしてその生物は、トトたちの良質な食糧になった。


 食糧が確保できた後は、より育てやすくおいしい食糧にするべく、彼らを交配させ、遺伝子改良して他の生物の特徴を取り込むことが積極的に行われた。

 下半身が魚のもの、馬の半身を持つもの、髪の代わりに蛇の上半身が生えたもの。

 そして、背中に鳥の羽があるもの。

 改良されたそれらは、やがて愛玩動物として流通するようになった。

 遺伝子をいじられる前、その生物たちは、自分たちのことを、「人間」と呼んでいたらしい。


 人類は家畜に堕ちたのだ。


 胃の中身がこみ上げてきた。両手で口元を押える。

 こらえきれず、わたしは床に嘔吐した。

 彼が用意してくれた食事。調理された美味しい肉。

 胃の中身を全て吐き切るまで、嘔吐は止まらなかった。

 そうか。

 わたしは自分のことを、人間だと思っていたんだな。


 本の中に、天使について解説しているページを見つけた。

 鳥の遺伝子を組み込んだ人間。

 様々な種類の鳥との交配が試験されたが、中でもうまく行き、ダントツで人気なのは、白い羽をもつ鳥との交配だそうな。

 ペット用に交配された種のため、逃げ出すことがないよう、実際には飛べないように羽のサイズが設計されているという。

 人間サイズにそのまま拡大した鳥の羽をつけたところで、本来なら飛べるはずがないのだそうだ。人体のままでは、羽を動かすための胸筋が足りないらしい。

 どうやらわたしは、ペットとしては致命的な欠陥を抱えた失敗作のようだ。

 うっすらと記憶が蘇る。

 トトに拾われる前、わたしは、わたしは、ペットショップに輸送される途中だった。

 飛べないものと高をくくった異星人たちの元から、必死に羽ばたいて逃げ出した。

 やがてわたしは力尽き、ビルの隙間に落ちた。

「人間ではないと思うよ」

「多分あれじゃないかな。天使」

「驚いた。君は本当に飛べるんだね、ベラ」

 彼の言った言葉の意味が、今ならはっきりわかる。

 彼にとって「人間」とは、食用の人類のことだ。

 彼のいう通り、わたしは人間ではない。

 愛玩用の人類だからだ。

 本当は飛べるはずのない、天使。


 ペットにつける、人気の名前一覧が書いてあった。

 人間が犬や猫につけていた名前を、愛玩用の人間につけるのが流行っているらしい。趣味の悪い異星人だと思った。

 彼はわたしの名前を尋ねるとき、「名前はあるの?」と尋ねた。

 「名前はなんていうの?」ではなく。

 「この子犬、名前はもうあるの?」というわけか。

 アメリカで流行っていた、雌犬につける一番人気の名前は、ベラだった。


 気がつくと、わたしは飛んでいた。

 床を蹴り、思い切り跳ね上がり、背中の白い羽を大きくはためかせ、力強く羽ばたく。

 ガラスの天井を突き破ると、青空の下にいた。

 この感情はなんなのだろう。

 彼と過ごしたこの二ヶ月は、なんだったのだろう。

 彼は確かに優しかった。

 野良犬に。

 どうして野良犬にも感情があるんだろう。


 白い砂浜だった。

 顔を上げると、頰についた砂つぶがさらさらと落ちる。

 身を起こし、辺りを見回した。

 海だ。

 写真の中でしか見たことのない、広い海。

 渡り鳥には、生まれつき海の先を見る感覚があるという。

 わたしの中の鳥の部分が、ここへ連れてきたのか。

 綺麗だった。

 初めて見る本物の海は、本当に果てなく広がっていて、嘘みたいに澄んでいた。

 こうして波の音を聞きながら水辺を眺めていると、人類が家畜に堕ちたことも、背中の羽も、嘘みたいだった。

 わたしの中の人の部分が、そう思わせるのか。

「ねえ、君。大丈夫?」

 不意に、後ろから声をかけられた。

 聞き覚えのある声に、驚いてわたしは振り向いた。

「……トトなの? どうして……!」

「落ち着いて。僕はトトじゃない。ジョエルだよ」

 錯乱するわたしに、トトの顔をした青年はそう名乗った。

 意味がわからなかった。

 こんなところまで逃げて来たのに、トトは追って来たのだろうか。どうして別の名前を名乗るのだろうか。わたしにわからないとでも思っているのだろうか。ペットは知能が低いとでも、思っているのだろうか。 

「いや! 来ないで!」

 暴れ始めたわたしを、彼は両手を上げて敵意がないことを示しながら、必死になだめた。

「落ち着いてってば! 大丈夫だよ、何もしない。何もしないから」

 ジョエルと名乗る青年の言葉を、どこまで信じていいのかわからなかった。

 しかし少なくとも、トトはそんな必死なそぶりを見せたことなどなかった。

 今のジョエルの方が、よっぽど人間臭い気がした。


 ここまで海を飛んで来た疲労もあってか、やがてわたしは落ち着くと、抵抗を諦めて彼の話を聞いた。

 彼はこの島に何人かで暮らしているらしい。

 わたしが流れ着いたのはたまたまなのか、それとも、巣に帰る渡鳥の本能だろうか。

 彼の言葉を信じるならば、彼は異星人ではなく、本物の人間だった。


 彼らは天使のわたしを快く迎え入れてくれた。

 わたしを見つけたのもジョエルと名乗ったあの青年が最初ではなく、他の住人だった。

「たいへんだったのよ。あなたの羽、水を吸って重くて仕方なかったんだから」

 彼女は裸の胸元を隠そうともせずそういった。尾びれがぱちゃんと音を立てて海面を叩いた。

 わたしを拾ってくれたのは、この島に住む人間のひとりだった。人間といっても、彼女はわたしと同じで、愛玩用に改造された人類だ。

 わたしと違うのは、下半身が虹色にきらめく美しい鱗に覆われた、魚であるというところ。

 アンナと呼ばれた彼女は、人魚と呼ばれるタイプの種だった。

 島の端にある入江に住む彼女とは、よく話をした。

 アンナは人間のところをなんとか逃げて来て、下水を通って海に出たらしい。そしてこの島に泳ぎ着いた。

「だって上半身も魚のやつとセックスさせられるのよ。ほんとキモい。あり得なくない?」

「上半身も、って、それ全身魚じゃない」

「そ、ただのでかい魚! しかもあいつら、ところ構わずぶっかけてくるの。ほんと無理」

 あけすけな性格で人魚の彼女とは気が合った。

 わたしは森に居ついて、木の実なんかを食べて細々と生きている。

 ジョエルは時々わたしやアンナの元にやって来て、食料を分けてくれた。

 トトと顔が同じなのは、どうやら本当に偶然らしい。話をするうちに、中身が全く違うことがわかった。

 彼らはわたしのことを、羽があるだけの同じ人間として扱ってくれた。

 わたしはジョエルの元で、ときどき高いところにものを設置するような仕事を手伝った。

 アンナも海で魚を獲って、ジョエルたちに分けてあげているらしい。

 ここでは彼女は漁が得意なただの女の子で、わたしは高いところに手がとどく、ただの女の子だった。


 ある日わたしは、ジョエルに呼び出された。

 出会ったのと同じ白い浜辺を、月明かりが一層白く照らしていた。

「ベラ。聞いて欲しいことがあるんだ」

「なに。ジョエル」

「好きだ。愛している。僕と一緒になってくれないか」

 月の光は青白かった。海はより青く、砂浜はより白く、彼の顔は綺麗だった。

「ごめんなさい、トト。やっぱりわたし、ペットとして愛されるのには、耐えられそうもないわ」

「……ベラ?」

 呆然とする彼の前で、わたしはゆっくりと羽を広げた。

 やっぱりここは、異星人の島だったんだな。


 追いすがる彼の声は遠く、なにを言っているかは聞き取れなかった。

 わたしは黒く、青白い海を飛んだ。

 降りる場所がどこにも見えなくなるまで飛んだ。

 わたしの頭は、とっくにおかしくなっていたのだろう。

 いつからかはわからない。

 始めからかもしれない。

 でなければ、トトも、ジョエルも、アンナも、みんな好きになんて、ならないはずだ。

 異星人も、人間も、人魚も、わたしにはわからなかった。

 トトとジョエルの区別は、最後までつかなかった。

 わたしは天使だったから。

 わたしは自分のことを人間だと思っていたが、きっとそれは間違いだったのだろう。

 ペットは飼い主のことを、どのくらい好きになるのだろうか。

 高く、高く飛び続けて、薄く冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、最後にわたしが見たものは、トトの部屋で、写真で見たのと同じ景色だった。

 ああ。

 この星は、本当に青いんだな。


 家畜は飼い主に、恋をするのだろうか。


第二話 車椅子の高級娼婦

 ベッドと大きな水槽。

 薄暗いこの部屋で、私は今日も、男を待っていた。

 部屋のスピーカーからは、低音の効いたシックなジャズが静かに流れている。私はベッドに寝転んだまま、一匹も魚のいない水槽をぼうっと眺めていた。

 客を待つ間はやることがない。

 他の娘は休憩室でおしゃべりに勤しんでいるらしいが、私はそういうものとは無縁だった。

「おい。客だ」

 部屋のスピーカーから、不意にボーイの声がした。

「お得意様だ。五分で支度しろ」

「はあい」

 ベッド脇の壁は、一面が鏡になっていた。私は上半身を起こすと、手ぐしで髪を整え、軽く化粧をチェックする。

 我ながら美しい顔だ。波打つ淡い色の髪、大きく物憂げな瞳、すっと通った鼻筋。南国の沈みかけた島の砂浜のように白い肌には、小ぶりな唇が、切り開いた赤貝のように艶めいていた。鏡に向かってほんの少し笑って、笑顔がうまくできることを確かめると、声を出した。

「どうぞ」

 合図をすると、扉が開いた。扉の前に立つ男と、鏡ごしに目が合う。

「こんばんは」

「こんばんは。また来ちゃったよ」

 男は軽い声の調子で挨拶したが、目だけが笑っていなかった。ぎらぎらと光を放つ、欲望をたぎらせた、男の目。際限なく快楽を求める男の視線を、私は微笑みを浮かべて受け止める。

「嬉しい。待ってたよ。次はいつ来てくれるのかしら、って」

 男が後ろ手に扉を閉め、近づいて来た。

 視線が背中を撫でる。

 後ろから抱きついて来た男の手の甲を、そっと指先でなぞると、男が首筋に顔を埋めた。

「ずっとこうしたかった」

「……最近ね、眠るときこうされないと、少しさみしい」

「俺もさ」

 襟元に男の手がかかる。ゆっくりと衣服がはだけられ、露出した肩に、男の唇が触れた。


 客の相手は嫌いではない。

 ほんのあれっぽっちのものを出すために、高い金を払い、あんなにも必死になって。

 焦らして、焦らして、ほんの少しいじってやれば、欲望を隠し切れない媚びた目で、甘えるように私を見る。

 私の上で一生懸命に腰を振る男の顔は、可愛らしく、滑稽で、醜かった。

「次はいつ来てくださるの」

 水槽に下半身を浸け、ふちにかけた腕に顎を乗せて、私は尋ねた。

「……そうだな」

 ベッドに腰掛けてタバコを吸う彼は煙を吐き出すと、少し間を空けて言った。

「たまには外で会わないか」

「外?」

 私は驚いて返事をした。

「私がここを出られないの、知ってるでしょう。どうやって?」

「金だよ」

 男が言った。

「君をここから連れ出せる金額が、やっと貯まったんだ。オーナーと話もつけたよ」

 突然のことに、言葉が出なかった。

「うちに来てくれ。君がもっと広いところで泳ぐ姿を見たい」

 オーナーは私を売ったのだろう。金を提示されたのなら仕方がない。

 この店の商品として飼われていた私に、拒否権はなかった。

 なんのことはない。相変わらず私に人権などないのだから、肩書きが娼婦から、ペットに変わるだけのこと。

 愛玩動物に人権はない。人ではないからだ。

 ゆえに売春にも、法律がない。

「ここにあるのよりも、ずっと大きな水槽があるんだ」

 人魚とのセックスは、ただの獣姦なのだから。


 男の家には、本当に大きな水槽があった。

 海底を模した岩や水草、観賞用の小さな魚たちのいるその水槽は、試験管育ちで本物の海を知らない私にとって、多少は楽しめる造りだった。

 男が仕事に出ている間、私は水槽の中をひたすら漂う。

 泳ぎ回るのはいい退屈しのぎだった。元いた娼館であてがわれていた水槽は浴槽サイズのもので、泳ぐなんてことは到底できなかったから。セックス以外で運動したことのなかった私にとって、この広い水槽で泳ぐのは、悪くない快感だった。私の中の魚の部分が、喜んでいるのを感じた。

 男の家は二階建てだったが、一階から天井までが吹き抜けになっていた。私を愛でるために用意された大きな水槽は、一階の中央に置かれ、階段を上がった中二階のところにちょうど水面があった。

 男が仕事から帰ると、私は水面まで浮かび上がり、男は階段を上って中二階に上がる。水槽の上に飛び出した小さな桟橋のような床に、男は素足になって腰掛け、足を水面にひたす。私は桟橋に上半身を寄りかからせながら、彼に寄り添うのだ。

「君とこうして一緒に居られて、とても幸せだよ」

「ええ。私も」

 愛おしそうに私を見る男に、私は笑顔で調子を合わせた。

 嘘を吐くのは素潜りよりも簡単だ。

 気さくで、彼を否定せず、どんなに小さな苦労も労い、惜しみなく功績を讃える、美しい女。貴方の能力を評価しているの、尊敬しているわと女に言われれば、男は簡単に自信をつける。いくつになっても、男は女に褒められるのが大好きだ。

 そうして自信をつけると、馬鹿馬鹿しいほど単純なことに、性欲が湧き上がる。私は彼の劣情を敏感に感じ取り、いつだって淫らに身体を開いた。彼のことは別に好きでも嫌いでもなかったが、私は彼の理想の女を演じてやった。

 生きる意味など、生まれたときから見出せなかった。

 他にすることもない、ただそれだけの理由で、私は彼の理想の恋人を演じていた。


 男にとって生きるとは、プライドを保つことなのだろう。人間の女に否定されたくないから、もしくは否定されたから、私のような半人を犯せる娼館にやってくる。そんな男はいくらでもいた。

 私を犯すことを通して、客は女を犯しているという体験を噛みしめる。金を払い、動けない私を好き放題犯したくせに、それによって自信を取り戻すのだ。俺はこの女より上なのだ、と。

 哀れな生きもの。

「君を愛しているよ」

 ベッドでの行為を終えて、私の乳房に触れながら言う男の頭を、私は胸元に引き寄せた。

「私も。いつだって貴方の帰りを待っているわ」

 男の頭を撫でてやると、彼は甘えるように顔を擦り付けた。

「すまない。せっかく待っていてくれるのに、明日からしばらく、家を空けないといけない用事ができたんだ」

「まあ。そうなの」

 珍しく彼がそんなことを言った。

「三日後に戻るよ。食事は用意しておくから」


 彼が家を空けて一日経ったころ、私は奇妙な違和感を水槽内に憶えた。

 私と一緒に入れられた観賞用の小魚たちが、減っている気がしたのだ。

 とはいえ魚たちは、私の飼われている短い期間にも、卵を産み、繁殖していた。最初は暇つぶしに数えてみたこともあったが、今となっては正確な数はわからない。


 二日目、明らかに魚の数が減った。

 あまりに暇だったので丸一日かけてよくよく観察してみると、ある岩陰に入った魚たちが、出てこないことに気づいた。

 ただの好奇心だった。私は尾びれで水を叩き、一気に水底まで潜ると、その岩陰を覗き込んだ。

 視界が赤色に染まった。

 なにかが顔に貼りついている。赤く、太く、異様に力強いなにか。

 思わず両腕でその太いものを掴むと、両腕にもまとわりついてきた。絡みつくそれは、強烈な吸引で私の腕を離さず、上半身にまで伸びてくる。

 顔を締め付ける触手の隙間から見えた、伝聞でしか知らないその生きものは、今日まで一度もこの水槽で姿を見なかった生きものだった。

 本物のタコを初めて見るのが、まさか襲われながらとは。

 ありえない大きさだった。一日中ここで過ごしている私なら、このサイズの生きものがいればさすがに気づく。

 ということは、大きくなったのか。

 最初から居た子ダコが、魚を食べて大きくなったのだろう。タコには体表の色を変えられるものもいるそうだから、小さいうちなら気づかなくても無理はない。

 などと考えているうちに、もがく私をタコはその触手で押さえ込んでいった。全身に伸ばされた触手は、今まで私を乱暴に犯してきたどの男の腕よりも力強く、私を抱きしめた。

 骨のきしむ音が聞こえた気がした。

 私は声にならない叫びを水中で泡と共に吹き出しながら、必死にもがいた。

 私の中の魚の部分が、自然に動いた。人間よりもずっと強い筋力を持つ人魚の下半身は、触手を振りほどき、私は視界が赤くふさがったまま、水槽の中をがむしゃらに泳いだ。

 頭に強い衝撃が走った。何かにぶつかったのだろう。急に水流が生まれ、抗えず私は流される。

 タコの貼りつく頭が、急に引っ張られた。いや、逆だ。タコが何かに引っかかったのだろう。私は流されていた勢いも利用して、尾びれでさらに加速をつけると、吸い付く力が負けたのか、不意にタコの触手が体から離れた。

 視界がクリアになる。

 水槽の壁に穴が空いているのが見えた。さっき頭をぶつけたのは、どうやら水槽の壁だったらしい。

 肺で息ができることに気づく。空気がある。

 そこまで思考が至って初めて、私は自分が、水槽を外から眺めていることに気づいた。

 底付近の壁に空いた穴からは、大量の水が部屋に流れ出していた。床はすでに水浸しだ。いびつな形に空いた穴には、タコが突き刺さって身体を激しくくねらせていた。砕けたガラスの壁に引っかかったのだろう。

 肩で息をしながら、私はしばし呆然とした。

 命の危機を感じて、私はとっさに、もがいた。

 生きるために。

 突然湧き上がった生への渇望に戸惑いながらも、私の目は水の流れを追っていた。

 部屋の隅に、水が流れ落ちていく場所がある。

 万が一水槽が破損してもいいように設置された大きな排水口だった。

 浅い水たまりと化した床をウミヘビのように這い泳ぎ、私は排水口に蓋をする柵に尾びれの先を差し込んだ。

 自分でも信じられないほどの力が湧いた。

 わずかに空いた隙間にすばやく尾びれをねじ込むと、凄まじい勢いで体が引きずりこまれる。下半身が柵に挟まれ、鱗が無理矢理ひきはがされた。痛みに思わず叫ぶが、構わずそのまま上半身をねじ込んだ。

 血と虹色の鱗を撒き散らしながら、私の体は暗い下水道へと飲まれていった。


 どうして私は、あのとき排水口に飛び込んだのだろう。

 全身ズタボロになりながら、汚物にまみれた狭い配管をくぐり抜け、私は広い下水道にたどり着いた。

 灯りも無く、ひどく悪臭に満ちたそこには、間違っても飲み込みたくないような汚水が、ちょっとした川のように流れていた。

 静かに、ひどく高揚していた。

 こんな気持ちはとうになくなっていたと思っていた。与えられた生活を甘んじて受け入れ、男に媚を売ることが生きることだと、思おうとしていた。

 得体の知れない衝動に身を任せ、私は下水の流れに従い、さらに加速するように尾びれを力強く動かし、泳いだ。

 人魚の本能が知っていた。

 この川は、やがて海へと流れつく。


 ここまでどうやって来たのか、ちゃんとは思い出せなかった。 

 見上げれば太陽がある。

 娼館の浴槽よりも、男の部屋の水槽よりも、ずっと広い、透き通った水の中。

 塩辛い海の水は、不思議とどこか、なつかしい味がした。


 それから何日も経って、大海原を気の済むまで泳いだ私は、小さな島を見つけた。

 見れば私の逃げて来た陸とは違い、まだまだ自然の残る、ほとんどが森に覆われた島だった。

 人間に合わせた食生活をしていた私は、さすがに生魚ばかりの食事に飽きて来たころだったので、あわよくば果物にでもありつけないだろうかと思った。

 でも、もしあの島に、人間がいたら。

 生きることに執着などなかったはずの私は、誰にも媚びを売らなくても生きていける海で、自分の力だけで生きる自由を味わってしまった。

 再び人間に捕らえられたら、今度こそ生きていられるかわからない。

「ペットの生死は、飼い主が決めるんだよ」

 物心ついたころから育った娼館で繰り返し言い聞かされてきたことは、未だ私の心に、人間への恐怖となって刷り込まれていた。

 しかし一度思いついてしまっては、その欲望を消すことはできなかった。

 あの水槽を出てから、自分に驚いてばかりだ。

 まさか自分に、こんなに食欲があったとは。

 仕方あるまい。私の中の高級娼婦だった部分が言っている。

 いい女は、甘いものに目がないのだ。

 水面すれすれを泳いで、私は島に近づいていった。

 水面からほんの少し顔を出し、目だけを島に向けると、白い砂浜が見えた。

 そして、人影も。

 私はなるべく慎重に、気づかれないよう、ゆっくりともう一度水中に潜った。

 先ほど見た人影を、再び脳裏に思い浮かべる。

 人間はてっきり、足が一本多いものだと思っていたのだが。

 見たことのない形をした人間だった。

 足が四本ある人間もいるのだろうか。


 水中で先ほど見た光景について思案していると、頭上を黒い影が通り過ぎたのが見えた。

 とっさに尾びれを翻したときには、もうすでに遅かった。

 網だ。

 わたしは黒い網に捕らわれ、水中をズルズルと引きずられた。必死にもがいて抵抗するも、力強く進む網によって水面が迫り、浜辺へと引きずり出される。

 そこにはさっき見た、四本足の彼がいた。

「え!? だ、誰ですか!? 大丈夫ですか!?」

 網にかかった私を見て、彼はひどく狼狽していた。

 人間の上半身は、チェックシャツを着た、細身の男性だった。黒いふちのメガネをかけ、黒髪は油に濡れていた。

 間近で見ると、彼が四本足の理由がよくわかった。

 下半身が馬なのだ。

 同類とわかった瞬間、一気に警戒心がゆるんでいくのを感じた。

「……はじめまして。アンナよ」

 私はもがくのやめ、名乗ってみることにした。

「え!? あっ、は、はじめまして! あ、えと、すみません、魚を捕ろうと思って、あのあなたを捕まえるつもりでは、えっと、すぐ、すぐに! すぐに網を外しますから!」

 彼はかわいそうなくらいうろたえていた。その様子にすっかり肩の力が抜けてしまった。思わず吹き出してしまう。

「ふふっ。いいのよ。あなたの名前は?」

「僕ですか!? た、タツヨシです! タツヨシといいます!」

 絡まる網を彼は外そうとしてくれたが、焦っているからか、やや苦戦しているようだった。というか、なぜか目線を手元にやらずに、明後日の方を見ながらやっているのだ。

「落ち着いて、タツヨシくん。手元を見ながらやった方がいいんじゃない?」

「いや、その、だって、あなた、服着てないじゃないですか」

「あっ」

 そうだった。

 下水を泳いだときの臭いがひどかったから、海で捨てたのだった。

 裸を見られるのは仕事柄慣れているが、人に会わないと忘れるものだな。

「ごめんなさい。はい、これでいいでしょう」

 私は手で胸元を隠すと、彼はおそるおそるこちらに目線をやった。

「ね、ほら。見ても平気だよ」

 散々男を相手にしてきた私には、彼が女慣れしていないことがなんとなくわかった。

 網を外してもらった私は、浜辺に腰掛けると、彼といろんな話をした。

 彼はこの近くにひとりで暮らしているらしい。食料の魚を網で捕ろうとしていたら、偶然私を捕まえてしまったんだとか。人魚を偶然捕まえるなんて、おとぎ話並に運がいいではないか。ケンタウロスに網で捕まえられる体験と、どっちがレアなのだろう。

 彼は私と同じように、人間の遺伝子に他の動物の情報を組み込み、人工的に生み出された生き物だった。ベースは見ての通り、馬。

 私みたいに女性と魚のハイブリットは、愛玩用として、裏では性ビジネスの商品として男性人気を獲得していたらしいが、ケンタウロスは何用だろう。マッチョ好きの女性に向けた、愛玩用だろうか。自分が娼婦だったせいか、そういう意図の愛玩用くらいしか需要を想像できない。

 そう思うと、彼もよく見れば、細身ながら上半身ががっちりとしていて、馬らしく筋肉質な身体をしていた。顔とファッションがオタクっぽいのが、上半身の筋肉、そして馬の下半身と比べて、アンバランスで強烈だった。

「この近くに研究所の跡があってね。今は廃墟なんだけど、無人になる前に僕が造られてたらしくて、気づいたら培養槽に一人っきり。だから他の半人を見たのは初めてです」

「ふうん。私もケンタウロスに会うのは初めてよ。下半身が馬の男の人って、なんだか神秘的ね。神話みたい」

「いやいや、人魚だっておとぎ話でしょ。神秘的だと思いますよ」

「まあ。ありがとう」

 驚いたな。人間以外と話すのがこんなに落ち着くとは。

 彼は照れくさそうに笑った。可愛らしい笑顔だった。うぶな反応だ。童貞だろうか。

 まあ下半身が馬では、たしかに相手にも困るだろう。

「アンナさんは、どうしてここに? もともと海に住んでたんですか?」

「私? 私は……」

 少し黙ってから、私は答えた。

「……最近この海に来たばかりなの。甘いものが食べたくなっちゃって。この島に果物はあるかしら」

「なんだ、そうだったんですか。じゃあ採ってきてあげますよ。ちょっと待ってて!」

 微妙に濁した私の返事を疑うこともなく、彼は驚くほど素直に反応した。立ち上がると、すぐに駆け出そうとする。

「待って!」

「何ですか?」

 彼を呼び止めた私は、少し迷った後、尋ねた。

「この島に、あなた以外に人間はいるの?」

「僕が人間かは微妙なとこだけど……いますよ。一人だけですけど。それがどうかしました?」

「その……できれば私、他の人間に見られたくないの。せっかくとって来てくれるのは嬉しいんだけど、できれば見つからないところで待たせてもらえないかしら」

「あっ、そうなんですね。うーんと、そうだな」

 彼は腕を組んで少し考えた。

「じゃあ、僕の家に来ますか? さっき言った研究所の跡に一人で住んでるから、人間はいませんよ」

「まあ。いきなり家に誘うだなんて、見かけによらず大胆なのね」

「えっ? それってどういう……」

「……なんでもないわ。せっかく誘っていただけてとっても嬉しんだけど、この足だから。ごめんね」

「あっ、そっか。そうですよね」

 彼は再び思案すると、何かを思いついたらしく、声を上げた。

「……あっ! いいこと思いついた! ちょっと待ってて!」

「え? 待ってよ、私どうしたらいいの?」

「すぐ戻るから! この浜の近くにいて! また呼ぶから!」

 そう言うと、彼は森の方へと走っていってしまった。さすが馬。足が速い。

 ひとり取り残された私は、仕方なく海の中へと戻った。

 彼は何を思いついたのだろう。振り回されているはずなのに、不思議と嫌な感じはしなかった。金持ちの客のわがままを聞くのとは、全然違った。

 あんなに目をキラキラさせて、無邪気な子どものような笑顔を見せられては、さすがの私も逆らえない。


 彼はなかなか戻って来なかった。やがて日も暮れようという頃まで待ってようやく、彼は再び浜辺に現れた。

「すみません遅くなって! 持ってきました!」

 彼は何か大きなものを抱えていた。黒い車輪のついた、椅子のようなものだった。見たことがない。

「これはなあに?」

「車椅子です!」

「車椅子?」

「知らないんですか? とりあえずここにですね、よっと!」

「わあっ!」

 滅多に上げないような声が出てしまった。突然彼に抱きかかえられたのだ。

「ちょっと! いきなりなに……」

 私はその椅子に座らされると、彼は後ろに回った。

「こうして押すと、ほら! 動けるでしょ!」

 彼は椅子の背もたれについたハンドルを握って押しているらしく、私の腰掛けた車椅子は砂浜をゆったりと進んだ。

「……すごい」

「そう? ちょっと時間かかっちゃったけど、施設にもともとあったガラクタを組み合わせてつくったんだ!」

 彼は笑顔を見せると、得意気に語った。

「……すごい。本当にすごいわ」

「いやあ、照れるなあ! それでね、横の車輪についてる手すりがあるでしょ。これを握って動かせば一緒にタイヤも動くから! つまり腕の力だけで進めるんだ。やってみて!」

 彼のいう通りに、私は車輪についた手すりを握った。

 前に動かすと、車輪が動き、私を乗せた車椅子は前へと進んだ。

「……信じられないわ。嘘みたい」

「君にプレゼントするよ。これで一緒に僕の家まで行けるね」

 無邪気な子どものような口調になって、そう言う彼。

 彼は気づいていなかった。

 陸を移動できることに、私がどれだけ感動していたのかを。

「……本当にありがとう。素敵な体験だわ」

 今まで出会った男たちはみんな、私を逃さないように、小さな水槽か、ベッドに閉じ込めた。

 誰一人いなかったのだ。

 歩けるようにしてくれる人なんて。


 道の悪いところは彼に押してもらいながら、私は車椅子で彼の家へと向かった。腕力がなくて疲れたが、自力で陸を進めるのは本当に楽しかった。

 たまたま会った女に、散々待たせたと思ったら、とびきりのプレゼントをしてくれて。

 いるんだな。こんな男も。

 家に着くと、彼の言っていた通り、そこは何らかの研究施設の跡のようだった。よくわからない器具や装置がそこら中に転がっている。

「小さい頃から機械いじりが好きなんだ。ここにあるものは壊れた装置も多かったけど、ほとんど直したよ。その車椅子は余った部品を組み合わせてつくったんだけどね、急いでつくったから手動になっちゃったけど、次は電動で動くモデルに挑戦するつもり!」

「……素敵よ。本当に」

「そうでしょ! 手元のレバーを前に倒したら進む、後ろに倒したら戻る、なんてのがシンプルでわかりやすいと思うんだけど、どうかな?」

「とってもいいと思うわ」

 夢中になって自分の発明を語る彼は、すっかり砕けた口調になっていた。好きなものについて語ると止まらないらしかった。

 彼の笑顔がまぶしかった。

 いいな。

 好きなものがあって、こんなに夢中になって。

 彼の話す内容は機械のことが多く、正直私はそんなに興味を惹かれなかった。

 でも、夢中で聞いた。

 楽しそうに話す彼の顔を見るのが、好きだったから。

「……それでね、データベースにアクセスするのに部分的には成功したんだけど、どうしてもロックが解除できないところがあって。暗号を解くだけだったらなんとかハックできるかと思って頑張ったんだけど、どうもパスワードが文章じゃないみたいなんだよね。ヒントが少ないけど、多分大昔に流行った画像解析技術の流用で、画像認証で開くタイプじゃないかと思う。顔認証でこの施設の持ち主がロック解除してた可能性もあるっちゃあるし、その辺を今解析してるところ!」

「そうなの。じゃあこの施設の持ち主さんは、何か隠したいものでもあったのかしら」

「多分ね。研究成果が流出しないように、って程度だとは思うんだけど、でもここだけやけに厳重に隠されると、かえって燃えちゃうね。暗号が解けた瞬間っていうのは、たまらなくエキサイティングなんだ。アンナさんも一度やってみるといいよ」

「私は別に、その人が隠したいことがあるなら、わざわざ覗こうとは思わないけれど……でも、そうね。大昔の人が残した秘密の記録を読み解こうとしてるのは、ちょっとロマンチックね」

「そう! そうなんだ! ロマンがある!」

 興奮する彼の前で、私は少し黙った。やがて祈るように小さな声で言った。

「……鍵が解けたら、私にも見せてくれる?」

 彼はすぐさま「もちろんだよ!」と笑ってくれた。

「あ、でも、どうやって呼べばいいのかな。普段はあの辺りの海にいるの?」

「そうね。最近は。人間に見つかりたくないし、決まった場所に住んでいるわけじゃあないんだけど」

「そっか……あっ、じゃあこの近くの入り江なんてどう?」

「入り江?」

「うん。この家のすぐ近くなんだけど、森の中に、海と接してる小さい砂浜があるんだ。そこは人間の村とは正反対だし、島の外からも見えづらいちょっと入った場所だから、隠れるのにはちょうどいいかも」

 願っても無い提案だった。

 私は彼と、別れがたいと思ってしまっていたから。

「……いいの?」

「うん。あ、いや、この島僕のってわけじゃないし、僕がいいとか言えないんだけど、でも、僕は全然」

「……ありがとう。本当にうれしい」

 彼は照れくさそうに目線をそらした。


 その日は夜遅くまで、たくさん彼と話した。

 彼はあんなにメカニックに強いのに、魚を獲るのは下手らしい。

 網を遠くまで投げる機械でもつくればいいのに、そもそも魚のことがよくわからないのだそうだ。彼は泳げないらしい。

「そうだ。ねえ、網を貸してもらえないかしら」

「え? いいけど、何に使うの?」

「お礼をさせて欲しいの。私、泳ぎには自信があるのよ。魚をたくさん捕って持ってくるわ。食べてくださる?」

「ええ!? そんな、ありがたいけど、そんなお礼を言われるようなことなんて」

「してるわ、十分。素敵な時間のお礼よ。あなたと車椅子に」

 彼はひたすら遠慮していたが、やがて網を私に預けてくれた。

 知らなかった。

 誰かにしてあげたいことがあるのって、こんなにうれしいことだったんだな。

「……あの、タツヨシくん」

「何?」

 部屋の明かりで、ガラスの窓に私の顔が写っていた。

「た、タツヨシって呼んでも……いい?」

「え? いいけど」

「……やった」

 我ながら美しい顔だ。

 生まれて初めて、人に笑顔を向けた気がした。


第三話 氷憑けの人工神話

「--増え続ける人口、枯渇する資源、そして深刻な食糧危機。今から約千年前、人類が陥ったこれらの問題を解決したのは、地球の旧イタリアで生まれたひとりの科学者、トト・メリーニでした。彼の開発した画期的な惑星間航行技術により、人類はすっかり狭くなってしまった地球を離れ、他の惑星での暮らしを始めることができるようになったのです」

 人類ならどんな小さい子どもでも知っている、画面いっぱいに映し出された男の顔は、どこか思いつめたような、暗い目をしていた。

 僕も科学者くずれだからか、なんとなくわかった。

 彼はきっと、人類が存続する道を見つけたことになど、本当はまったく興味がないのだろう。

 ただ知りたいことを、追い求めていただけなのだ。

「--元々、彼の専門はバイオテクノロジーでした。いつものようにフィールドワークに出かけた二五歳の夏、歴史的な発見をします。旧アイスランド、ヨークルスアゥルロゥン湖の底で、新種の鳥の化石を発見したのです。新たに発見されたこの鳥は、それまでに見つかっていたあらゆる鳥の先祖、始祖鳥と遺伝的に近い存在でしたが、決定的に異なる進化を遂げていたため、鳥類の真の姿を体現した鳥、『真祖鳥』と名付けられました。残念ながらすでに絶滅してしまったと思われるこの真祖長の翼は、機能的に他のどの生き物とも異なっていました。偶然と進化の奇跡、生命の神秘としか言いようのないそのミステリアスな翼の構造は、当時の物理学の歴史を二百年は進めたと言われています。その原理を応用した宇宙船が開発されたことで、人類の他惑星への移住はこの上なく簡単になりました……」

 地球に帰ってきた人類向けの、よくある歴史番組だ。もう何度も観た。

 眺めていた画面に興味を失うと、僕は窓の外を見た。

 浜辺を天使が飛んでいる。

「ちょっとベラ。ちゃんとそっち持ってる?」

「持ってるってば」

 網の片方を持ち、木の上にくくりつけているベラは、背中にある白い翼をゆったりと羽ばたかせ、宙を漂っていた。

 網のもう片方を持つ女性は、車椅子を動かしてもう一本の木まで進むと、枝に網の先端を結びつけた。

「アンナできた?」

「できたわ。お願い」

「はいはい」

 アンナと呼ばれた車椅子の彼女が両手を差し出すと、ベラはその手をつかんで浮かび上がった。アンナの下半身を覆う美しい虹色の鱗が、日差しを浴びてきらめいた。

 人魚の彼女は、自力で立つことができない。

 ガラクタを組み合わせてつくった急ごしらえの車椅子は、僕からしたらまだまだ改良の余地のある代物だったけれど、彼女はとても喜んでくれた。改良版の電動モデルは、3D製鉄プリンタで出力する図面を今組んでいるところなのだが、彼女は「手動のままでいい」と言う。自分の力で進めるのがいいらしい。

 そういうものだろうか。足が四本もある僕には、歩けない人の気持ちはうまく想像できなかった。

「きゃっほう! 思った通りいい感じよベラ」

「それはなにより」

 出来上がったお手製のハンモックに寝転んだアンナは、嬉しそうにはしゃいでいた。始めて会ったときは落ち着いた大人の女性だという印象だったが、彼女には小さなことでも大はしゃぎする無邪気な面があった。最近生きるのが楽しくて仕方ないんだそうだ。いいことだな。

 対照的に暗い表情のベラは、先日もまた自殺に失敗したばかりだった。失恋だかなんだかで、なるべく高いところまで飛んで、酸欠で意識を失って墜落するという自殺を何度も試みるのだが、死ねた試しがないらしい。気がつくといつもこの辺りの浅瀬か浜辺に打ち上げられていて、なんだかんだで生きているのをアンナが見つけてくるのだ。僕も一度見つけたことがある。不思議だ。

「……あー、わたし、どっか散歩してくる」

「また自殺? どうせ死ねないんだしやめときなさいって」

「えー……だってここにいたらまたジョエル来るし……気まずい……」

「彼の顔見るたびにヒスってどっか飛んでく癖、早く治した方がいいんじゃない?」

 僕の住む研究所跡の裏は小さな入江になっていて、今はアンナが住んでいる。ベラは森の中で高い木の上なんかを寝床にしているみたいだけど、人間のジョエルよりもケンタウロスの僕や人魚のアンナと居る方が気楽らしく、よくこうして三人で会っていた。

 ちなみにジョエルというのは、この島に住む青年の一人だ。ベラの話だと、どうやら以前好きだった人に顔がそっくりらしい。顔を見るとどうしていいかわからなくなるそうで、パニックになってどこかに飛んで行き、酸欠で墜落してはこの島に流れ着く、というのを繰り返している。なんという豪運。

 会話する二人の元へ、砂浜を歩く。砂浜は蹄の僕には歩きにくい。何かいい方法があるといいんだけど。

「あら、タツヨシじゃない。見てよこれ、ハンモック!」

 今しがたベラと自作したハンモックに寝転びながら、アンナが嬉しそうに声をあげた。

「水の中みたいでなかなか寝心地がいいわ。あなたもどう?」

「いいね。でも僕は遠慮しておくよ。網が破れちゃいそうだから」

「残念。でも確かに、重さを支えられないかもしれないわね。あなたがっしりしてるから」

「馬だからね」

「あ、タツヨシだ。おはよう」

「おはよう、ベラ。気分は落ち着いた?」

「まあまあかな。ちょっとショックが大きくて、まだ引きずってるけど」

 ベラはやや元気のない声音でそう言った。

「勘違いするのも無理ないよ。異星人が来て人肉を食べるんだ、っていう説を信じてる人類も、実際まだ地球には残ってるわけだし」

「運が悪かったのよ。たまたま旧地球人の出版した手記だけを見るだなんて」

 アンナも慰めるようにそう言ったが、ベラは弱々しく頭を振った。

 初め彼女は「地球が人間そっくりの異星人に支配され、人類は食用の家畜になり、自分たちは遺伝子を弄ばれ生み出されたペット」という説を主張していたが、それは間違いだ。ネットから情報を得られる僕も、ここに来る前は客商売をやっていたアンナも知っている。


 今から約千年前、増え続ける人口問題、取り尽くされた資源、そして食糧危機を解決するため、テラフォーミングした他惑星に人類はほとんどが移住した。その上で地球は、穀物や家畜を育てる食料庫となった。

 しかし金のない者、戸籍のない者、社会的に命を無視された弱者たちは、地球に残らざるを得なかった。

 再び植物と野生動物の楽園となった地球で、細々と生き延びることとなった彼らは、新しい敵とも戦わなくてはならなくなった。

 多惑星からやって来る臓器売買の密輸業者だ。

 どれだけ時代が進んでも、他人を金に変えたがる人間は現れる。

 地球に残された人類は、科学、文明のレベルが著しく低下した。世代を経るごとに真実が埋れ、他惑星から来る密輸業者の人類を「異星人」と勘違いした者すら現れた。手書きの書記をしたためたものが出回り、「人肉を食べるために捕らえられている」という誤解が、地球に残ったわずかな人類に広まってしまったのだという。

 これがベラの勘違いにつながった。


 ということをベラに説明すると、ショックのあまりまたどこかに飛んで行ってしまった。それからやっぱりこの島に流れて来て、今はこうして僕たちの近くにいるというわけだ。

「……わたし、どうしたらいいんだろ」

 翼をゆっくりと動かして空中を漂うベラが、物憂げに言った。

「そうねえ。ベラの好きな人も、別に人肉食べてたわけじゃないなら、拒絶する理由ないんでしょう?」

「まあ」

 ベラは複雑そうな顔をしていた。

「正直、パニックになってただけだった、かも。ジョエルの顔がそっくりなの見て、ああ、頭おかしくなったんだなわたし、って考えるのやめてた節あるし。会いたい気もするけど、逃げちゃったこと怒ってるだろうし……夢中で逃げて来たから、場所もわかんないし……」

「ただの誤解だったんでしょ? きっと謝れば許してくれるわよ。会いたいんでしょう。やっぱり会いに行くのが一番いいと思うけれど。せっかく羽があるんだし」

 そう言うとアンナはあくびをした。

「ま、落ち着くまでここに居たらいいわ。どっか飛んで行っても、また私が見つけてあげるわよ」

 アンナには、なんとなくベラの居場所がわかるのだそうだ。

 理屈はよくわからないが、なぜかアンナはベラのいる方角が分かる。ただし、ベラがパニックを起こして、どこかに飛んで行ったときだけだ。本人は「女の勘」と言っている。感覚的なものらしい。女性とは興味深いものだな。

「あー……うーん……しばらくここにいる」

 ベラがアンナの隣に寝転がって頬杖をついた。空中のまま。器用な飛び方だ。どうやってるんだろう。

 やはりあの大きな翼に秘密があるのだろうか。物理演算を何度頭の中でシミュレートしても、今みたいな飛び方はどうやったらできるのか、見当もつかない。おそらくあの翼の美しい曲線を描くフォルムこそが、僕の想定しているより多くの浮力を、大ざっぱな計算ではわからない微妙なバランスで得ているに違いない。正確に測定させてくれないかなあ。一枚一枚の羽の形も、もっとよく見てみたい。

「何見てるの?」

 しばらく考え込んでいた僕に、アンナが声をかけた。

「ああ、いや、綺麗だなと思って」

「何が?」

「ベラの羽だよ。綺麗なフォルムだ」

「……ふうん」

 アンナの返事に、僕は補足で説明をした。

「機能的な意味でさ。そもそも普通、あのサイズの動物が飛ぶためには、もっと胸筋が必要だ。でもベラは実際に軽々と飛んでる。多分あの羽の形や材質に秘密があるんだよ。どういう仕組みなんだろう」

「胸筋。そう。胸を見てたのね」

「そうだね。羽と、胸だ……アンナ? どうしたの?」

「別に」

 アンナの声音が微妙に冷たくなった気がした。向けられる視線も、心なしか冷たい気がする。

 何故だろう。

「……あー、タツヨシ。わたしを見るのは構わないけど、見るなら羽だけにして」

 ベラが寝転がったまま言った。

「え? でもやっぱり、翼と胸筋と、あとは肩甲骨と脊柱起立筋も連動して動いてるわけだし……」

「そうじゃなくて。あんまり女の子の胸をジロジロ見ちゃだめ」

「ご、ごめんベラ! そういうつもりじゃなくて?」

「わたしよりアンナに謝った方がいいよ」

「え、なんで? アンナの胸は見てないよ」

 ベラが何も言わずに肩をすくめたのを見て、僕はアンナに視線を向けた。彼女はベラの方を見ている。

 しばし黙った後、自分の胸に手を当ててポツリと言った。

「……サイズかしら」

「え?」

「ちょっと魚を獲ってくるわ。また後でね」

「あ、うん。また」

 アンナは器用にハンモックから降りると、車椅子に乗って波打際まで行ってしまった。車椅子から降りた彼女は、そのまま海へと飛び込み、波間に姿を消した。

「……タツヨシ。胸の大きい女の子が好きなの?」

「ええ? 気にしたことないよ、そんなの」

「じゃあアンナのこと、綺麗だと思う?」

「それは思う。やっぱり人魚って、泳ぐことに特化した下半身の筋肉のつき方が本当に見事で……」

「あー、えー、そうじゃなくて」

 ベラは天を仰いだ。

「……アンナ。わたしには、どこがいいのかわからない」

「どうしたの?」

「なんでもない。そういえばタツヨシ、この後何かするって言ってなかった?」

「ああ、あれね。いや、ベラが暇なら、一緒に暗号を解いてみないか、って誘おうと思ってたんだ」

「暗号?」

 怪訝そうな顔をするベラに、僕は説明した。

「そう。僕が住んでる研究所跡には、いまだにどうしてもアクセスできない秘密のデータがあるんだ。ベラって数学も得意だし、プログラミング言語と画像認識周りのアルゴリズムを勉強すれば、いい線行くと思うんだよね!」

「まあ、嫌いじゃないけど……気晴らしに、ちょっとやろうかな」

 以前ベラと話した時に、彼女が数学と理論物理学に関してかなりの才能を持っていることがわかっていた。

 気を紛らわすには別のことに頭を使うのもいいかもしれない。そのくらいの発想だ。

「本当? 嬉しいな! 暗号のタイプはおそらく二千年代に一般的だった共通鍵暗号なんだけどね、そこに画像認証でパスを設定したっていうところまではわかってるんだけど、その画像の認識基準が例えばある画像の一定範囲内のRGBの値なのか、それとも三次元で認識して凹凸のポイントクラウドを見てるのか、まだ全然わかってないんだけど、あ、共通鍵暗号っていうのはね! 素因数分解の一意性を利用するんだけど、素因数が二つでできた十分に大きな合成数を用意して、その合成数を法として適当に平文の数値を累乗することで暗号化するって形式なんだけど、複合には法とした合成数を元に累乗を打ち消すような異なる整数を使えばよくて、あ、素因数分解の一意性っていうのはね!」

 つい夢中になってまくし立てる僕の話を、ベラは時々「あー」とか「うん」とか「へー」とか言いながら聞いていた。これで本当にわかっているのだからすごい。

 話しながら研究所まで歩き(彼女は飛んでいる)、僕がコンピュータを起動する。

「--基本的にはそんなとこかな! で、これが僕がアクセス失敗し続けてるパスの入力画面なんだけど、やっぱり画像認識を強引にハックしようとしてるわけだし、ちょっとひねりが必要だと思うんだ。とはいえベラは学びたてだから、まずは簡単な暗号の解読から実際にやってみよう。多分ベラなら、カエサルシフト暗号くらいの簡単なのは見たまんまだろうから、いきなりヴィジュネル暗号の解読に挑戦してみてもいいんじゃないかな。あ、ヴィジュネル暗号っていうのは一六世紀に考案された多表式の……」

 その時、スピーカーからアナウンスが鳴った。

『パスワードを確認しました』

「……え?」

「……ん?」

 壁一面を占める大きなメイン画面には、「パスワードを確認しました」の文字が表示されていた。

「……嘘だろ」

 何が起きたのか。

 目まぐるしく頭の中で仮説と否定が飛び交い、やがて一つの結論に辿り着く。

 ありえないけど、それしかありえなかった。

「……君が鍵だったみたいだ、ベラ」

 画面の文字が消え、フォルダが表示された。

 中にあるファイルは、たった二つだけ。

 『daiary』と書かれたテキストファイルと、『β 』と書かれた動画ファイル。

「……信じられない。悔しいけれど、ベラ、僕は今ひどく興奮しているよ。自分の力で解けなかったのは残念だけど、君のおかげで秘密を知ることができるんだ。この研究所の持ち主のね」

「……わたしの顔が、鍵だったってこと?」

「そうみたいだ。どういうことなのかすぐにはわからないけれど、この二つのファイルにヒントがあるかもしれない。ベラ。せっかくだから君が選んでくれ」

「何を?」

「どっちから見たい?」

 ベラは少し首を傾げて画面を眺めると、やや間を置いて言った。

「……テキスト」

「わかった」

 僕はPCを操作し、『daiary』と書かれたテキストファイルを開いた。




20XX.6.10

 研究所が完成した。

 今日から日記をつけようと思う。

 研究一筋で道楽を知らなかった僕には、幸い前にいた研究所で貯めた金がたくさん余っていた。こうやって自分の研究所をこの島につくることができるくらいには。

 小さいが、最低限の設備は揃えたつもりだ。

 大事なのは設備よりも、秘匿性。

 彼女の存在は、世に知られてはならない。


20XX.6.11

 この島の入江で彼女と出会ってからというもの、月日が経つのはあっという間だった。彼女を研究するのは、これまで取り組んできたどんなことより面白い。

 彼女は間違いなく、人類の進化の可能性を秘めている。


20XX.6.15

 大学院にいた頃、ハオランと一緒にゲノム解析で功績を挙げた時が、今の興奮に一番近いかもしれない。いや、それ以上か。

 彼女のことをもっと知りたい。


20XX.6.20

 ハオランに彼女とのことを冷やかされるようになった。「研究に恋してる科学者なんて、よくある話だろ?」と彼は言う。

 大学院時代に一緒にひと旗あげて以来、彼は他の誰よりも信頼できる友人だ。彼だけには、彼女の存在を打ち明けた。「ちょうど南の島のビーチでネットサーフィンしたい気分だったんだ」などと言い、この島に移り住んできてくれた。

彼には設備のメンテナンスを頼んでいるが、彼も彼女に興味があるらしい。主に演算能力と飛行アルゴリズムについての関心らしいが、僕もあまり詳しい分野ではない。


20XX.6.21

 彼女に名前をつけた。驚いたことに、名前がなかったらしい。

 彼女を初めて見た時、彼女が森の奥の入江のほとりに佇んでいた美しい姿を、僕は生涯忘れないだろう。

 ベラ。

 ラテン語で「美しい」と言う意味だ。


20XX.7.3

 やはりハオランに協力を頼んで正解だった。複雑で膨大なベラのゲノム解析には、彼のプログラミングの能力が必要不可欠だ。

 僕の専門は遺伝子工学の域を出ないし、彼はプログラミングと機械弄りが趣味のギークでしかないが、僕らが組めば生命の神秘を解き明かすことも夢じゃない。



20XX.7.7

 ハオランと組んで研究をするのは、この上ない知的興奮に満ち溢れた体験だが、最近はベラと二人きりになる時間が多い。

 気を利かせて席を外してくれているのかもしれない。

 女性経験の無さでは僕と良い勝負の彼に、そんな芸当ができたとは。


20XX.7.14

 夏の浜辺は美しい。砂浜をベラが飛ぶ姿は、どんな海鳥よりも優雅で、まぶしかった。


20XX.7.20

 ベラのゲノム解析が一通り終わった。大量に遺伝子を見てきた経験上、ベラの遺伝子には、人間に類似した部分と、鳥類に類似した部分があるように思えた。しかし人か、もしくは鳥の突然変異として片づけるには、遺伝子が混じり過ぎている。やはり新種とみなすべきだろう。

 念のためデータベースや過去の論文を当たるのはハオランに任せているが、彼も「見つからない」と言っている以上、完全に一致するような生き物はおそらくいないのだろう。


20XX.7.21

 「ハオランでも見つけられないということは、地球上のどのデータベースにもこの生き物の塩基配列は記録されていないということだろう」と冗談めかして言ったら、彼は悔しそうにしていた。褒めたつもりだったのだが。


20XX.7.29

 ハオランが新しいプログラムを組んだ。研究サポート用に特化したAIだそうだ。彼の名字から『Dシリーズ』と名付けられたそのAIは、早速ベラの遺伝子が他の生物に類似していないか調べてくれた。

 予想通り、ベラの遺伝子は人間のものと鳥のものを、奇跡のような配分で混ぜ合わせたもののようだ。

 ただし、鳥の部分が何の種なのかが、今ひとつはっきりしない。

 既知の鳥類でもっとも似通った種との整合率は、73%だった。高いとは言えない。

 ベラのルーツを明らかにするには、まだまだかかりそうだ。


20XX.8.3

 ベラの遺伝子には、約6%だけ魚類に似通った部分があることがわかった。面白い結果だ。

 人と、鳥と、魚。

 走ること、飛ぶこと、泳ぐこと。

 これらの行動が概念と化し、混ざり合って昇華したものが、天使の飛行だとでもいうのだろうか。

 僕は何を言っているんだ。


20XX.8.6

 ベラの特異な飛行能力について、おぼろげではあるが解明が進んできたので記録しておく。

 始め、空中から突然現れては消えるベラの飛行を見たときは、いわゆる「瞬間移動(テレポート)」だと思った。

 つまり、あるA地点から消えたのと「同時に」別のB地点に現れる、というものだ。

 しかし観測を続けるにつれ、そうでもないことがわかった。

 あるA地点から別のB地点に瞬間移動するまでには、微妙に時間のラグがあるのだ。

 ごく短距離、約10メートルまでの移動では、その時間差はほぼゼロに等しいが、そこから先は「ランダム」に移動時間が発生する。距離に関わらず、だ。これは頭を悩ませる結果だった。

 通常の物理法則に従えば、遠くに飛ぶには、その分長い時間がかかるはず。

 しかしベラの場合は、キッチンまで行くのに10分ほどかかったかと思えば、島の端から端まで移動するのにわずか2秒しかかからないこともある。わけがわからなかった。

 これには僕もハオランもお手上げだったが、ベラ自身の言葉がヒントとなって解明にこぎつけた。

「斜めに飛ぶか、横に飛ぶかの違い」。

 彼女にとっては感覚的なものである「飛行」という行為は、どうやら僕たちが考えていたよりもずっとスケールの大きなものだったらしい。

 結論から言うと、彼女にとっての「飛行」は「3次元空間内での移動」などではなく、「11次元空間内での移動」であった。

 理論物理は専門外のため、理屈を詳しく記述するよりも、理解しやすい事実だけを述べるに留めよう。

 簡単に言うと、彼女は過去や未来にも飛べる。


20XX.8.7

 そもそも彼女には、時間という概念がなかった。

 彼女と初めて会ったときの会話で、「いつからここにいるの?」と尋ねたら、「いつって何?」と聞かれたのだ。その時は適当に説明してすぐに彼女も理解してくれたからか、今の今まで見逃していた。

 彼女には時間の概念がなかった。

 というより、時間を気にすることがなかった。

 当然である。

 過去から未来に歩き続けることしかできない僕たちと違って、彼女は過去にも未来にも、好きに飛ぶことができるのだから。

 彼女が気まぐれに時間軸を移動しながら飛べば、キッチンまで10分かけることも、島の端まで2秒で飛ぶことも、容易いことだった。


20XX.8.8

 彼女自身に試してもらうことで、僕たちは確信を得た。

「その場から10秒後の未来」に飛んでもらったのだ。

 合図と共に姿を消してから10秒後、彼女はもう一度、同じ場所に出現した。

 間違いなかった。彼女の飛行は4次元だ。

 それから彼女自身に聞き込みをすることで、彼女が移動できる軸は、前後、左右、高さと深さ、時間の他に、7種類あることがわかった。

 彼女には初めから11種類の軸が認識できており、その軸上で動くことが彼女にとっての「飛ぶ」という行為だったのだ。これはホーキングの11次元宇宙論と一致する。彼女の飛行は時間どころか、もっと高次元の行為だったのだ。

 時間にも距離にも支配されない彼女にとっては、キッチンにコーラを取りに行くぐらいの気軽さで、宇宙の端から端まで飛べるというわけ。


20XX.8.9

 ベラ。

 彼女の存在は物理学の歴史を200年は進めるだろう。

 彼女の飛行原理を解明し、応用することができれば、人類は時間にも距離にも縛られることなく、遠い宇宙の果てにある地球に似た環境の惑星まで、一瞬で移動できるようになるかもしれない。

 そしてもっとも驚くべきことは、その途方も無い未来の物理学の結晶としか思えない11次元飛行が、ただの生物によって行われていることだ。

 人間の理解を超えたところに生きる存在という意味では、彼女は本当に天使なのかもしれない。


20XX.8.10

 ベラが11次元を認識できているのは、どうやら脳とは別の器官によるものらしい。

 例えば人間は、2つの目に映る景色が微妙にズレていることから、目の前のものを「立体」、つまり3次元のものと認識している。片目をつぶって見ると立体感がなくなるのはそういうことだ。つまり人間は目で3次元を感知している。

 同じように、ベラの体内には脳とは別に、11次元を感知できる器官があるようなのだ。

 彼女の体内は人間とほとんど同じだが、精密スキャンの結果、仙骨の辺り、子宮の近くに、人間には存在しない器官があることがわかった。いくつかのテストを経て、ベラが飛行する際にはこの器官への血流が増加し、活性化することがわかっている。

 仮にこの器官を「11次元感覚器」と呼ぶことにする。


20XX.8.12

 更なるスキャンの結果、ベラの11次元感覚器は子宮に癒着していることがわかった。癒着というか、子宮そのものがそうなのかもしれない。

 もし仮にベラのような生命体に他の個体がいるとして、男性ベースのものはいるのだろうか。子宮がない場合はどうなるのか、生物学者の端くれとしては気になるものだ。


20XX.9.1

 あまり嬉しくないことが起きた。ハオランがDシリーズの性能テストとして僕のゲノム解析を行ったところ、先天的な疾患が見つかったのだ。

 現在の医学では、この疾患の治療法はない。

 遺伝子を後から変える技術が僕にない以上、これは近い将来、死が約束されていることを意味する。

 このことはベラには言っていない。


20XX.9.5

 計算上、僕の寿命は残り10年らしい。今25歳だから、35歳で死ぬことになる。

 今はまだ症状は出ていないが、時間の問題だろう。

 ハオランがDシリーズに医療分野の知識の自己学習アルゴリズムを組み込んだらしい。彼なりのアプローチで僕を救おうとしてくれているのだ。彼の研究の最初の成果が、僕の残り寿命の算出だった。

 10年。

 何ができるだろうか。


20XX.10.7

 ベラに病気のことがバレた。


20XX.10.9

 ベラが話を聞いてくれない。研究にも非協力的になった。

 あと10年で、やりたいだけ研究させてくれたらいいのに、彼女は言うことを聞いてくれない。

 

20XX.10.13

 最近僕のいないところで、ハオランとベラが話しているのに気づいた。

 僕が死ぬとわかった途端に、他の男と仲良くするのか。

 僕はこんなにベラのことだけを考えているのに。

 ベラがデータを取らせてくれないから、研究も滞っている。


20XX.10.15

 酒を飲むようになった。ベラは相変わらずハオランとコソコソ話している。そんなにハオランが好きならふたりで出て行ってくれ。それか、いっそ僕が出て行こうか。

 馬鹿馬鹿しい。


20XX.10.21

 ハオランとベラから、「話がある」と呼び出された。「ハネムーンの有給申請か?」とからかったら、激怒された。

 ベラは未来に飛ぶつもりらしい。

 僕の治療法を探しに。

 ハオランとAIの計算では、今の医療技術の進歩スピードでは、僕の治療法があと10年で見つかる可能性は低いそうだ。

 そこでベラが、未来に飛ぶ。

 未来の治療法をここに持ち帰って、僕を治す。

 そういう計画らしい。

 僕はふたりに謝った。ふたりはずっと、僕のことを考えてくれていたのだ。


20XX.10.25

 ベラの話によると、年単位の時間飛行はあまり経験がないらしく、「飛ぶための目印が欲しい」と言ってきた。

 そうは言っても、未来のことは僕らにもわからない。

 未来に確実にあるような目印とは、何だろうか?

 目下僕たちの課題はこれだった。


20XX.10.27

 未来まで確実に残る目印について、ずっと考えている。

 例えば建物。

 風化や天災で壊れる可能性があるからダメだ。

 例えば自然物。

 大きな山。これも地震や火山噴火で動いたり無くなったりする可能性はゼロではない。却下。


20XX.10.29

 今さらだが、仮にベラが治療法の確立した未来に行けたとして、どうやってそれを持って帰るつもりなのだろうか?

 これまでの実験で、ベラに何か物体を持たせた場合、時間飛行はできないことがわかっている。

 例えば治療法を何らかの記録媒体にデータの形でコピーして、それを持って帰る、というやり方はできないわけだ。

 このことを彼女に言うと、彼女は「覚える」と言った。

 無茶苦茶だ。

 なにひとつ医療の知識がない彼女が、いきなり未来の進んだ治療法を理解し、覚えてくるだなんて。

 しかし彼女はこう続けた。

「あと10年も勉強できる。絶対わかるようになる」

 この日から、腹を括った僕とハオランの授業が始まった。


20XX.11.6

 ベラに人類の知識を教え始めて1週間が経った。彼女は言葉通り、驚異的な学習スピードですべてを吸収していった。

 中でも数学と物理に関しては、文字通り天才としか言いようがないほどの才能を見せた。これに関しては、もともと彼女が11次元上での自分の座標を認識できていたことが大きい。普通の人間なら、11種類の数字を頭の中に常に認識しながら生活するなんてことは不可能だ。これは彼女の演算能力がちょっとしたコンピュータ並だと言うこと。


20XX.11.13

 ベラは一日中勉強している。今は医療系の大学で使うようなテキストを片っ端から読んでいるところだ。

 僕の疾患が遺伝的なものということは、治療には遺伝子工学の知識が必須になるだろう。その辺は僕の専門分野なので、ベラが追いついてくれるのが楽しみだ。


20XX.11.20

 ベラがついに遺伝子工学の勉強を始めた。

 驚異的な学習スピードとはいえ、彼女はまだまだ勉強中だ。未知の疾患を治療するほどの知識はないし、そもそも未来へ飛ぶための目印も、まだ何も思いついていない。

 こんな状況だというのに、僕は、またベラとたくさん話ができるのが嬉しかった。


20XX.12.14

 南国のこの島にも冬が来た。冬と言っても、半袖で過ごせる他の季節と比べて、上着が一枚増える程度の過ごしやすいものだ。

 ベラの知識は、その辺の医大生では敵わないくらいの水準に達した。高度な医療・生物学の知識を問うテストを自動生成するプログラムをハオランが組んでくれたことで、ベラの知識はさらに実践的なものへと変わりつつある。


20XX.12.29

 急に寒くなったからか、ここしばらく喉の調子が悪い。頭がぼんやりする時があるし、体もだるい。風邪でもひいたのだろうか。

 あと9年と少しの寿命を生き抜くために、なるべく健康でいようと思った。運動でも始めようか。


20XX.1.5

 年末からひいた風邪が治らない。熱を測ってみても大した数値ではなく、今ひとつはっきりしない体調が続いている。

 ベラとハオランには心配されているが、このくらいで休んではいられない。二人がこんなに僕のために頑張ってくれているのだから。


20XX.2.1

 気がついたら2月になっていた。言葉通りの意味だ。

 ハオランの話だと、僕は1月半ば、研究所で倒れたらしい。

 過労からくる風邪だと思っていたが、Dシリーズとベラの診断によると、持病の初期症状が出始めたらしく、それで倒れたみたいだ。

 アップデートされたDシリーズとベラが再計算したところ、僕の寿命は残り3年まで減っていた。思ったより状況はひどいみたいだ。

 一番ひどいのは、ベラが勝手に未来に行ったこと。


20XX.2.7

 僕が倒れて寝ている間に、ベラは未来へと行ってしまった。

 もうあまり猶予のない僕の時間と、自分の現状の知識・知能のレベルを考慮して、行くことにしたのだそうだ。

 ハオランとは口論になった。

 どうしてベラを止めてくれなかったのか。

 ベラが100年も200年も先の未来にまで飛ぶのに必要な目印は、まだ何も思いついていない。ただでさえ人の理解の範疇を超えた、時間移動なんてことをさせるのだ。

 彼女が無事に未来にたどり着ける保証がどこにある?

 

20XX.3.4

 ベラが帰ってこない。

 この1ヶ月はあっという間だった。

 ベラと過ごした日々が、何度も頭の中に現れては、消えて行った。


20XX.3.7

 一度倒れてからというもの、僕はずっと目印について考えていた。

 すでにここにいないベラが、一目見れば、「ここは未来の地球だ」とわかるような目印。

 思いついたのだ。ついに。

 ベラとの記憶を思い出す中で、ふと頭に浮かんだ。

 それは遺伝子によるタンパク質の再生成に関する講義をベラにした時の記憶だった。

 「今からずっと先の未来まで壊れない目印」という発想を、やめた。

 壊れても、また同じ目印ができればいいのではないだろうか?

 もしかしたらまだ、熱に浮かされているのかもしれない。

 でも、こうすれば、この先も、

 ずっと、


20XX.3.31

 実験は成功した。

 これでずっと、ベラを待っていられる。


「……ここで終わりみたいだね」

 研究室のモニターに表示された文章を最後までスクロールすると、僕は隣にいるベラに向けて言った。

 彼女は大きく目を見開いて、画面を食い入るように見つめていた。

「……ベラ? 大丈夫?」

「……あ、う、……へ、平気」

 しばらく黙った後、ベラはそのままの表情で声を発した。

 この日記に書かれていたことは、あまりに突拍子もない内容だ。

 しかしどこか、真実味を帯びている。

 それはベラの表情をみればわかる。

 ベラはゆっくりと目を伏せた。

「……ベラ。ここに書かれてたベラって」

「……うん。わたし」

 彼女は小さな声で呟いた。

「……全部思い出した」

「……そっか」

 トト・メリーニ。

 約千年前、人類が他の惑星に移住する技術の核となった、惑星間航行技術を開発した男。

 地球人なら子供でも知っているその男の顔が、見知ったベラと並んで笑顔で写った写真が、日記の最後には表示されていた。

「……ベラ」

「待って。タツヨシ、もうひとつファイルがある」

 ベラは画面の『β』と書かれた動画ファイルを指さした。

「まずはこれを観せて」

「わかった」

 僕はもうひとつのファイルを開いた。

 画面に動画が流れ始める。

「--あー、あー、音声大丈夫かな? ニーハオ! ベラ観てる? ハオランだよ」

 画面に映ったのは、黒髪に眼鏡の男性だった。

「……嘘だろ」

「そのセリフ2回目」

 そりゃあ驚くだろう。

 画面に映っていたのは、僕だった。

「あー、ゴホン。最初に説明すると、この動画は僕が勝手にトトの日記フォルダに忍び込ませたものだ。あいつは大好きなベラの顔をパスに設定してたみたいだけど、この時代からいなくなったベラをパスに使うってのは悪くないアイデアだったね。写真なんかを全部処分すれば、ベラ本人がまた現れない限り、この顔認証ロックは解けないってわけだ。あいつもなかなか考えるじゃないか。でもまあ、相手が悪かった! あいつの考えることなんてお見通しだし、ベラちゃんのファンはあいつだけじゃないってこと。そんなわけで、僕はうまいことハッキングして、研究室で撮ったこの動画をここに忍び込ませてる。ていうかベラ、ちゃんと観てくれてる? これ観てるのベラで合ってる?」

「うるさいタツヨシね」

「いや、これは僕じゃないってば」

 早口でまくしたてる僕にそっくりの顔をした男、ハオランを観て、ベラと僕はそんな会話をした。

 顔は同じだ。しかし下半身は、人間の足だった。ケンタウロスの僕とはもちろん異なる人物だ。心当たりもない。

 驚くことが続きすぎて、感覚が麻痺してきている気がする。

「さて本題だ。この動画を見ているってことは、ベラ、君は未来に飛ぶ前に僕と計画したことを、なんとか実行することができたってことなんだろう。まずはこの研究所を目印に十年以上先に飛ぶ。もしそこに3年で死ぬはずのトトが居たら、嬉しくないことに僕の予想が的中したってことだから、そこから先はトトを目印にさらに未来に飛べばいい。どういうことかは見ての通りだ」

 彼は後ろにカメラを向けると、そこには黄色い液体に満たされた透明なガラスケースの中に横たわる、トトの姿があった。

 全身にチューブが繋がれ、マスクの横からは周期的に泡が吹き出していることから、呼吸はできているようだ。

「クローンだよ」

 再びハオランがカメラに写って言った。

「トトならそのくらいのことはやると思ったけど、まさかベラが飛んでから1年で、自分のクローン作るとこまで行くとは思わなかった。あ、ちなみに今この動画を撮っているのは、ベラが飛んでから9年後だよ。あれから色々あったけど、ベラならもう何代目かのトトに聞いてるかな? 一応説明しとくね。まず、トトは死んだ」

 彼は平然とそう言ってのけた。

「僕の作ったDシリーズと、君の計算は間違ってなかった。あれからちょうど3年で、彼は死んだよ。とてもつらい出来事だった」

 彼は落ち着いた態度だったが、先ほどまでの明るい声がややこわばったものに変わった。

「君にこれを伝えるのも本当につらい。もう知ってるかもしれないけど、でも伝えなくちゃいけない。もっとつらいことになるのを止めるためにだ。それができるのはベラ、君だけなんだ」

 彼の声に力がこもる。

「……順に説明しよう。トトは死んだ。で、今は記憶を引き継いだトトのクローンが生きて、研究を続けてる。君の残したデータを使って、相変わらず君のことばかり研究してるよ、あいつは。まあ女の子の体ばっかり研究してるのは正直ちょっと気持ち悪いけどね。おっと失礼、本人に見せる動画だっけこれ」

「本当に失礼」

 ベラが無表情で言った。

「……あの頃から全然変わってない」

 ベラが小さくそう言ったのが聞こえた。


「あれからトトは、君のデータをもとに、君と似たような存在を作れないかと試行錯誤し始めた。

 もしかしたら君が帰って来ないと思ったのかもしれない。わからないけど。

 真意はともかく、実験は成功して、人間と動物のハーフみたいなのが何体か生まれた。

 一番最初に上手くいったのは鳥と人間のハーフだけど、これはベラのもとになった鳥が未知の種だったから、あまり整合率の高くない白鳥や白サギなんかを使って似せて作ったみたいで、出来がいいとは言えなかった。見た目は白い羽だけど、飛べなかったんだ。

 次に彼が作ったのは、魚と人間のハーフ。人魚だね。

 ベラの遺伝子にはわずかに魚に似た部分があったから、人間と魚を混ぜるのは、彼の想像してた以上に上手くいったみたい。

 で、最後が馬と人間のハーフ、ケンタウロスだ。これは人間とそれ以外の動物の遺伝子の混ぜ方に習熟した彼が試しに作った、哺乳類同士の組み合わせってわけ。

 天使、人魚、ケンタウロス。この3体を、彼はまとめて『神話モデル』と呼んでいたよ。何気にそういうの好きなんだよな、あいつ。

 そんなわけで、彼は自分のクローンを作り続ける費用を捻出するために、これら3種を物好きな金持ちに売り始めた。特に天使だ。何が気に入らなかったんだか知らないけど、見た目をベラに寄せて作ったくせに、彼はベラ以外の天使にとても冷酷なんだ。彼はいろんな鳥をベースに天使ばかりつくっては、どんどん売り払っていった。おそらくもっと先の未来だと、すっかりペット用に普及してるんじゃないかな。

 で、この3種のうち、人魚には特別な能力が備わっていることが数年前にわかった。

 メスの個体にだけ、部分的に11次元感覚器が発現したんだ。

 機能的にはオリジナルのベラに全く及ばないけど、重要な能力が発現した。11次元座標軸を飛行できるわけじゃないけど、感知だけはできたんだ。

 つまり、11次元上で飛ぶベラを、人魚は感知できる。

 彼はこの人魚を使ってベラを探した。その過程で、アイスランドのヨークルスアゥルロゥン湖? みたいな名前の湖に、11次元移動の反応があるって言って飛んで行ったら、凍った湖の底から新種の鳥を発見した。

 死んでからほとんど時間の経ってない状態で、氷漬けになって湖の底から出てきたその鳥を見て、トトはすぐにわかったみたいだよ。この鳥がベラの祖先だって。

 解剖してすぐにわかったのは、この鳥にも11次元感覚器があったこと。トトの予想では、この鳥は知能は高くない。どういうタイミングかわからないけど、突然生物史に発生したこの鳥は、適当にいろんな時代のいろんな所に散り散りになって飛んで行って、そのうち一匹がたまたま湖の底に出てしまった。この時代の氷の中にね。で、そのまま死んだところを、トトが見つけた。人魚を使って。

 トトはこの鳥を始祖鳥をもじって『真祖鳥』って呼んでたよ。

 その後彼は、うまいこと見つけたこの鳥の11次元感覚器を生で研究することで、君の移動原理を部分的に解明することに成功した。

 未来のどこかで聞いたかな? 彼はベラのことは黙ったまま、真祖鳥の発見とその飛行原理を応用した惑星間航行技術の発表で、あっという間に億万長者になった。

 彼はその技術を政府に売ったから、宇宙船の開発なんかに今後は応用されるみたいだけど、興味ないみたいだね。

 だからもうやることがなくなって、自分でベラをつくり、人魚を使ってベラを探し続けている。

 これが彼のここ9年間のおさらいね。死にかけの人間のやることはめちゃくちゃだよ、本当に。

 で、結局彼のプランは、自分のクローンを作り続けることで、君を待ち続けるというものなんだ。

 そして自分自身を、君の時間飛行の目印にしてもらおうとした。

 バイオテクノロジーが専門の彼らしいやり方だよ。よっぽど君が好きだったんだろう。ま、知ってたけど。

 ところが、倫理的な問題はさておき、技術的な問題が一つ発生したんだ。

 クローンの記憶の継承は、不完全だったんだ。

 これはアルゴリズムをみればわかることだから、僕も当然彼の願いを叶えたくて手伝ったけど、どう頑張ってもダメだった。

 DNAの分裂回数には限界があることは、ベラも知ってるよね。

 彼のDNAはクローンを作るたびに、ほんの少しずつ傷ついている。これが記憶の継承に重大な影響を及ぼしている。

 しかもまずいことに、クローンを作るスパンが短すぎるんだ。

 3年で死ぬんだよ、彼。必ず、毎回、きっかり3年だ。

 残り寿命3年の自分のクローンなんか作るからこうなるんだよ! まったく。

 僕はすでに3人、友を失っている。

 今後ろで眠っている彼も、また3年後には死ぬ。

 これがこの先何百年も続くだなんて狂ってるよ。

 一体僕はあと何人の友を失えばいい?

 生まれるたびに少しずつ記憶を失っていく友を、あと何回看取ればいい?

 このままじゃ僕まで狂ってしまいそうだ。こんなの間違ってる。僕と君が望んだ未来はこんなものじゃない。そうだろう?

 ベラ、お願いだから彼を止めてくれ。

 こんな思いをするのは、この世界の僕ひとりだけで十分だ。

 君が治療法を見つけて、元の時代に戻って、トトを治療する。そうすればきっと、この狂った未来は来ない。おそらく最初のトトが死んだ時点で、僕のいる世界の時間軸はこういう未来に向かうことが決まった。

 いいかい、3年だ。

 最初のトトが死ぬまでの3年の間に、なんとか戻って彼を治療してくれ。

 こうならない世界を作るために、僕にできる最後の抵抗として、このメッセージをベラに残す。

 僕の方でも、僕にできる形で、未来に目印を残したつもりだ。この動画と、あと冷凍ケンタウロスに仕込んだD−4.4をうまく使ってくれ。

 それじゃあベラ、お元気で!」


 「ツァイ・ジェン!」という中国語で「さよなら」を意味する挨拶を最後に、ハオランの動画は停止した。

 僕とベラは、しばらくの間、無言になった。

 お互い頭の中を整理しているところだろう。

 僕には初めて知ったことが多すぎて、正直混乱しているし、動揺している。

 これはベラにとって、とても大事な話ばかりだったはずだ。

 しかし僕が最後まで聞いて思ったのは、ベラには悪いけれど、僕自身のことだった。

「……ベラ。色々、驚くことばっかりだったけど」

「うん」

「ひとつだけ、どうしても、聞いてほしいことがあるんだ」

「なに? タツヨシ」

「やっとわかったんだ。僕の生まれた、いや、目が覚めた、冷凍庫みたいなところの上に書いてあった、文字の意味が」

 灰色のネームプレートのようなものに刻まれた、古いアジアの文字。

「……D-4.4だったんだ。『タツヨシ』じゃなくて。深読みしすぎたよ。日本語じゃなくて、中国語だったんだ。『龍-四.四』(タツヨシ)は、龍 浩然(ロン ハオラン)のつくった『Dragonシリーズ』の、ver4.4のことだったんだ」


 あまりに多くの衝撃的な事実に、僕は「一度頭を整理したい」と時間をもらうことにした。記憶を取り戻したベラも同感だったのか頷き、彼女は一旦研究所を後にした。

 その晩、僕は再びベラと会った。

 今度はアンナも一緒だ。彼女は獲ってきた魚を、こうしてよく僕に振る舞ってくれた。料理なんてしたことのない我流だそうだが、研究熱心な彼女の料理はとてもおいしかったし、僕はいつもこの時間を楽しみにしている。

「ふうん。そんなことになってたの」

 トト・メリーニの日記とロン・ハオランのメッセージの内容をアンナにも話すと、彼女はあっけらかんとして言った。

「ふうん、って。もっと驚かない? 普通」

「あんまり私には関係ない話だもの」

 焼いた魚をほおばりながら、アンナが言った。

 確かにそうかもしれないが。

「ま、ベラがどこかへ飛んでいく度になんとなく居場所がわかるのは、これで説明がついたから、そこだけは多少スッキリしたけれど。11次元感覚器とかいうのが私にあるってことでしょう?」

「そうね。アンナにはおそらくそれがある。試してみる?」

「え?」

 次の瞬間、ベラは僕たちの目の前から消えた。

「ベラ!?」

「こっち」

 突然のことに焦る僕たちだったが、すぐ後ろでベラの声がして慌てて振り返ると、そこにはベラがいた。

「何したの?」

「少し未来に飛んでみた。1秒後くらいに。アンナ、何か感じた?」

「ええ、少し。ふうん、この感じがそうだったわけね」

「ベラ! 本当に未来に飛べるんだね!」

 実際に目の当たりにするまではどこか信じられなかった話に、純然たる証拠を突きつけられてしまった僕は、やや興奮していた。

「まあ。一時的に記憶を失っても、無意識にこの島に戻るよう飛んでたし。飛び方は体が覚えてたから」

 そういうことか。ベラがパニックを起こしてどこかに飛んで行っても、体は無意識にこの島に戻るよう飛んでいた、ということなのだろう。

「でも、どうしてこの島なの?」

「ジョエルがいるから。わたしはトトのクローンを目印にして、いろんな次元を飛んでる。どの時代に飛ぶときも、そうすることでトトの近くに出現することができた」

「待ってくれ、ジョエルが?」

「そう。ジョエルもトトのクローン。ハオランから事前に聞いていた通りなら」

「……そうか。やっぱりそうだったんだね」

「気づいてた?」

「うん。可能性は高いと思ってた。僕の推測を先に話しても?」

「どうぞ」

 僕はベラと別れてから色々と考えていたことの一つを話した。

 ケンタウロスの冷凍実験の個体として選ばれた僕は、同様に冷凍睡眠実験の個体として選ばれた人間と、同時に目覚めている。

 それがジョエルだ。

 冷凍睡眠から同時に目覚めた僕とジョエルは、お互いに自分のベッドの上についていたネームプレートらしきものをもじって、自分の名前にした。

 僕は「龍-四.四」をもじって「タツヨシ」に。

 彼は「被験体J」をもじって、Jから始まる「ジョエル」に。

 ジョエルはトト・メリーニと顔がそっくりだ。しかし、トトのクローンの存在を知ってしまった僕には、もう可能性はひとつにしか思えなかった。

 彼は冷凍実験用に作られた、トトのクローンのうちの一体だったのだろう。

「目的はおそらく、延命技術の探求だ。クローンをいくらつくっても全部3年で死んじゃうなら、冷凍睡眠で3年以上生きることはできないか、という思いつきみたいなものだろう。違う?」

「正解。ジョエルはある時代でトトが試みた、冷凍睡眠実験の被験体。彼がいるから、この時代は他のどの時代とも違う、特別な状況にある」

「どういうこと?」

「この時代には、わたしが逃げてきたすっかり記憶を失ったトトと、ジョエルの、二人のトトがいる。わたしが記憶を失ったのがこの時代で本当によかった。トトから離れて自殺しようと飛んだとき、ジョエルが居たから無意識にこの島に来ることができた。トトの居る座標に飛ぶことを体が覚えてたから」

 ベラは僕の方を見ると、少し悩んでいるようなそぶりを見せた。

「わたし、二人のおかげでやるべきことを思い出せた。トトを救わなくちゃ」

「そうだね。協力するよ。何か僕たちにできることはあるかな?」

「それが……なんて言ったらいいか。本当に……最悪な選択をしないといけないの」

「え?」

「ベラ、いいのよ。もうわかったから」

「……アンナ。わたしは、せっかく友達になれたのに、友達にひどいことを言おうとしてる」

「ひどいなんてことない。なんとなくそうなるってわかってたみたいな、そんな気持ちよ。不思議と落ち着いてて、受け入れてる自分がいる」

「ん? アンナ、ベラ、何の話をしてるの?」

「タツヨシ、ベラが言いたいのはね」

「いい、アンナ。わたしが言う。わたしが言わなくちゃ」

 ベラはひとつ大きく深呼吸すると、僕たちにそれを告げた。


第四話 ただいま


「僕は君に恋した記憶も引き継いでいる」

 波打ち際を眺めながら、彼はそう言った。

「でもね、勘違いしないでくれ、ベラ。僕は確かにトト・メリーニだけど、オリジナルの彼とは別人だ」

 グラスを傾け、喉を鳴らしてソーダを飲む彼の喉仏から、わたしは視線をそらすことができない。

「もちろん最大の関心は、君について研究することだよ。でもそれは、恋愛をしたいという気持ちではないんだ。今の僕にとってはね」

 暑い夏の浜辺で、こうしてパラソルを広げて、下で休みながら、彼はお気に入りの炭酸水を飲む。

 わたしはそれを、黙って見つめるのが好きだった。

 この人の身体は、どこだって好きだった。

 喉仏でさえ愛しいと思った。

 この人は、確かにわたしの愛した男だった。

「ま、ほっといたらまた好きになるのかもしれないけどね。君は美人だから」

「……あなたイタリア人なのに、本当に口説き文句の語彙が少ないわね」

「辞書を引く暇があったら君のことを考えるさ。君のことしか考えない人生を何十回もやってるんだ、気持ちは本物だよ。ただし、この愛は僕のものじゃない」

 悔しくて、わたしが叩いた憎まれ口は、軽くかわされてしまった。

 この人は、いつだって同じ顔をして、同じ言葉で、わたしを口説く。

 それなのに。

「クローンは完全に同じ人物じゃないよ。記憶は受け継いでもね。根拠はいくつかあるけど、多分そういうのを説明する必要はないだろう。実際に何人もの僕と会った君なら。彼は確かに僕の中に生きているし、君との思い出は今でも美しいままだ。でも、僕はあのトトじゃない。はっきりわかるんだ。確かにあのトトは、君に恋をした。でもそれは、僕じゃないんだ。最初のトトなんだよ」

 彼がわたしの方を向いた。

「本当に帰ってくるかもわからない君にもう一度会うために、こうやって僕みたいなクローンに記憶を引き継いで、最初のトトは生き続けようとした。未来永劫、君がいつの時代に現れても、ずっと君を待てるように。でもね、ダメなんだ」

 淡いグリーンの瞳の色も、彼と同じだった。

「きっとどの時代の僕に会っても、同じことをいうよ。トト・メリーニは、ずっと君の帰りを待っている。ただし、最初に出会った、あの時代で。僕たちクローンも確かに君を待っていたけれど、そんなのは全部気にしなくていい。君が帰る場所は決まっているんだよ。君は帰るべきなんだ。トト・メリーニが生きて、そして死んだ、あの時代へ」

 わたしが出会った『このトト』は、オリジナルから数えて、十何代目だかのクローンだそうだ。

 死に至る遺伝的疾患が見つかったトトの治療法を求めて、わたしは何度も未来へと飛んだ。

 こうして何人ものトトと会った。

 正確には、トトが遺したクローンと。


 トトの記憶は少しずつ、代を経るごとに薄れているようだった。

 治療法を求めて未来へ飛べば飛ぶほど、そこで会うトトは、わたしとの記憶を失っていった。

 恋人と同じ顔をした男が、会う度に少しずつ、わたしのことを知らない男になっていく。

 それでも、わたしはトトのクローンたちと会うのをやめなかった。

 トトの遺伝的疾患に治療法があるとすれば、未来のトト自身が見つけている、と予想していたからだ。

 彼は必ず自分の病気のことを研究する。なぜなら、わたしが未来に飛んだ目的を知っているから。

 わたしだって、そう都合よく治療法が未来で見つけられるとは思っていない。そもそもどこで治療法を調べるのか。図書館か。病院か。名医を探して回るのか。トトの病気はかなり珍しいものだ。発症している例自体が少ない。当てがあるかと言われれば、正直なかった。

 だから、『治療法をつくる』ことを考えた。

 わたしがつくるのではない。

 トト自身に研究してもらう。

 ハオランの計算では、10年以内に治療法が見つかる可能性は限りなくゼロに近い。

 しかし、20年なら。

 30年なら。40年なら。たとえ100年かかったっていい。

 トトなら研究を続けられる。

 自分自身という被験体が、発症例が、何体でもいるのだから。

 このアイデアはトトに手紙を残して伝えてあった。

 何度かクローンたちと会って、彼が言う通りに自分の病気を研究してくれていることは確認済みだ。

 何代目かはわからないが、いずれ治療法が見つかるだろう。

 我ながら悪魔的な思いつきだった。

 なんてひどい女だろう。

 一体何人の彼が、トトの治療のために死ぬのだろうか。

 わたしはたった一人の恋人を助けるために、彼を何十人も見殺しにすることを選んだ。

 もし治療法が見つかっても、最初のトトを治療すれば、トトはそもそもクローンをつくるサイクルを始めない。

 未来が変わる。

 生まれたはずのトトのクローンたちが、みんな消える。

 過去を変えるとはそういうことだ。

 治療法を見つけるために、死ななくてもよかったかもしれないトトたちが死に、治療をすることで、生まれることすらなくなるのだ。

 何が天使だ。

 神の使いを名乗るには、わたしはあまりにも罪深い。

「ごめんなさい」

 わたしは言った。

「もうやめるわけにはいかないの」

「誰に謝っているんだい」

 彼は笑っていた。

「……あなたと、トトに」

「じゃあ直接言うことだ。わかるね」

「……うん。絶対に治療法を見つけるから。そしたら帰るから。いつだってトトの居場所はわかる」

「嬉しいよ。いや、やっぱり嬉しくないな」

 彼は気づいていたと思う。

 わたしが彼を通して、元の時代のトトに言っていることに。

「ひどい女だよ、君は」

「鳥だもの。きっと人ですらないわ」

「いいよ。そういうところが好きだったんだ」

 彼は微笑んだまま、それから何も言わなかった。

 わたしは彼に背を向け、地面を蹴った。

 翼を広げ、もう少し先の未来へと飛ぶ。

 待っててトト。

 渡り鳥は、必ず巣に帰るから。


 ベラにそれを告げられたとき、僕とアンナはしばし沈黙した。

「……ごめんなさい。わたしは本当にふたりのことが大切なんだって今やっとわかった。それなのに……もう、どうしようもなく選んでしまっている自分がいるの」

「ベラ。こっちに来て」

 今にも泣き出しそうなベラを、アンナが抱き締めた。

「わかってる。わかってるから。大丈夫よ。それでいいの。あなたがやりたいことをして」

「ベラ」

 ベラに告げられたことは正直ショックだったけれど、まるで最初からこうなるとわかっていたような、そんな不思議な気持ちだった。

「僕たちのことは気にしないで。君はやるべきことをするんだ。僕たちは平気さ。だって」

 僕はいっそ清々しいような気持ちで笑った。

「僕たち、友達だろ?」

 僕はこの言葉を口にできて、なんだかとても誇らしい気持ちになった。

 どうして誰もいない研究所に生まれて、機械いじりや暗号解読に熱を注いできたのかがわかった気がした。

 友達の力になるために、僕はこの日まで研究所を守ってきたのかもしれないと思えたから。

「……ありがとう。ごめんなさい。わたしもう行くね」

 ベラは泣いていた。

 僕とアンナは、どちらともなく笑って彼女を見送ることにした。


「ねえタツヨシ。ベラって本当に天使だと思う?」

「どうだろう。生物学的には、人間と鳥の遺伝子を両方持ってる生き物ってことなんだろうけど」

「そうじゃなくて……まあ、タツヨシらしい答えね。私はね、ベラは本物の天使だと思う」

「どうして?」

「だって死ぬときに迎えに来たでしょう?」

「……ああ。そうだね。うん。本物だ」

 二人で見る最後の夕日を、僕たちは浜辺でいつまでも手を繋いで眺めていた。


 過去、始まりの時へと飛んだわたしは、未来で得た知識を元に治療の設備を組み上げた。

 大掛かりな治療機械だったが、メカニックが得意なタツヨシにアドバイスをもらっていたのでなんとか完成させることができた。

 トトはベッドで眠っていた。頬は少し痩せ、顔色があまり良くない。

「お待たせ。これで全部、終わるから」

 装置の電源を入れると、トトの唇にそっとキスをした。

 行かなければ。もう時間がない。

「さようなら。わたしの愛しい止まり木」

 わたしはトトに背を向け、最後の行き先へと飛び立った。


 わたしが飛んだ先は、もう少し前の過去だった。

 トトとわたしが一年にも満たない時を過ごした、研究所のある島。

 その島の小さな入江、今ではアンナが居場所にしている入江を、わたしは木陰から見ていた。

 そこには、わたしとトトが居た。

「君は誰?」

「わたし。わたしは……誰って、何?」

 トトとわたしが初めて出会った場所。

 生涯で見る最後の光景は、この場面が良かった。だってわたしの記憶にある、最も嬉しい瞬間だから。

 間に合ってよかった。消えてしまう前にこの光景が見られて本当に嬉しい。

 ベラはもう、存在しなくなる。

 過去に行ってトトを治した以上、この先トトのクローンは一人も生まれない。トトがクローンをつくる理由がなくなるからだ。

 それはつまり、未来でトトがわたしを再現しようとした研究も、真祖鳥を発見したことも、なかったことになるということだ。

 だからわたしはいなくなる。

 だってわたしをつくったのは、記憶を失った未来のトトなのだから。

 トトが合成生物の研究をし尽くし、ついに人間と真祖鳥を掛け合わせたとき、わたしが生まれた。

 ある程度大人の体で生み出されたわたしは、真祖鳥の力を無意識に使い、生まれた瞬間いつかのどこかへ飛んだ。

 それがこの入江だった。

 そして、まだわたしをつくる前のトトと出会った。

 もしここでわたしと出会っていなかったら、トトは未来でわたしをつくらなかった。どちらが先かを問うことに意味はない。歴史はそんなパラドックスすら飲み込んで、ただそこにある。

 どうして生まれたばかりのわたしがトトのところに飛んだのかはわからない。

 まるで——この人に恋することを知っていたみたいだ。

「名前がないの? じゃあ、そうだな。ベラなんてどうかな。ラテン語で“美しい”って意味だよ」

 ありがとう。わたしに名前をくれて。

 あなたがくれたこの名前が、わたしにとって一番美しくて大切なもの。

 わたしは今、過去のわたしを迎えに来た。

 天使とは、死ぬときに迎えに来るものだから。

 こんなに頑張って、わたしは……わたしの存在を殺した。

 わたしの物語は始めから最後まで、天使が自殺する話だったな。

 でもこれで、満足だ。

 わたしはもうひとりのわたしとトトを最後にもう一度見て、目を閉じた。

 大きく翼をはためかせ、歴史の彼方に消えてしまう前に、どこかへ飛んだ。


エピローグ

 白い砂。穏やかなさざ波の音。

 頬に当たる砂の感触は、何度も何度も味わったもの。

「……え?」

 わたしはゆっくりと立ち上がった。

 いつもの浜辺だった。

「目が覚めたみたいだね、ベラ」

 横に居たのは、トトだった。

「あなたは……どの、トトなの?」

「ジョエルだよ。僕はジョエルだ」

「……ジョエル? どうして」

「おーいベラ!」

 聞き覚えのある声が後ろからして、わたしは振り返った。

 駆け寄ってきたのはタツヨシだった。背中に乗ってしがみついているアンナもいる。

「戻ってこれたんだね! すごく嬉しいよ!」

「おかえりなさい、ベラ。きっと戻ってくると思っていたわ」

「タツヨシ、アンナ……? どういうことなの? わたしは、過去を変えて……二人が生まれる未来も、変わってしまったと」

「僕たちもそう思っていたよ。でもね、過去を変えると未来が変わるというのは本当は少し違うみたいなんだ。実際僕たちは消えていないからね。多分なんだけど、世界が分かれたんだと思う」

 世界が、分かれた。

 そうか。

 あらゆる可能性の分岐の先、未来は……すべて存在するということ。

「そっか。そうなんだ。……よかった。本当に」

 二人の顔を見て、ジョエルの顔を見て、なんだかわたしは泣きそうになった。

「ああ、わたし、わたしは……これからどうしたらいいの?」

「ベラ。まずはジョエルに事情を説明してあげたらどう?」

「そう。そうね」

 アンナに促され、わたしはジョエルに長い長いわたしの飛行の話をした。

 ジョエルは黙って聞いてくれた。

「——ごめんなさい、ジョエル。わたし」

 気がつけば、わたしはジョエルに謝っていた。

 世界が分かれた今、消えずに済んだ今、やりたいことがわかってしまったから。

「いいよ。いいんだベラ。もうわかっただろう? これからやりたいこと」

「うん。わたし、最初のトトのところに行く」

 ジョエルはほんの少し沈黙して、微笑んだ。

「それでいい。僕が君を好きな想いは、オリジナルのトトから引き継いでいるのかもしれないけど……僕自身のものだと思ってる。だからこれは、ジョエルが、ベラに、振られたって話さ」

「……そうね。ごめんなさい。わたし、他に好きな人がいるの」

「はは、いいさ。冷凍睡眠から目覚めて、この島でなんとなく生きてたけど……君と出会えて、生きているって感じがすごくしたんだ。それは幸せなことだったよ。何より、僕にとっては君が幸せなのが一番だ」

 ジョエルとの話が終わると、タツヨシが言った。

「ベラ。君の翼は過去と未来だけじゃなく、別の世界線にも飛べるってことがもうわかってる。ここに来れたってことはね」

 アンナがタツヨシの背からひょこっと顔を出すと、微笑んで言った。

「そうよ。いつでも遊びに来て。わたしたち待ってるから」

「ありがとう。絶対来る」

「ええ。またね、ベラ」

「元気でね。また会おうよ」

「うん。また」

 ずっといろんな場所を、いろんな時代を、いろんな世界を旅してきた。

 やっと本当に行きたいところが決まったのだ。

「じゃあね、三人とも」

 わたしは大きく羽ばたくと、飛んだ。

 最初のトトが、今度は寿命で死ぬまで一緒に居るために。

 最後にトトを迎えに行く天使の役は、わたしがやりたいから。


 終

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