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「わからない」って「わかる」よりも大切かもしれない

「わからないって、実は心地いいんだ」

そう思ったことがあります。
2020年8月9日、横浜トリエンナーレに行ったときでした。

2020 ヨコハマトリエンナーレ


「わからないを楽しむ」がテーマのひとつとして掲げられているだけあって、何を表現しているのか「よくわからないな」と思うことが多かった展示会。

パンフレットより「わからない」を楽しむ
ニック・ケイブ 回転する森
入り口すぐ入って展示されていたきらびやかな装飾。
その中には銃や弾丸といった恐怖を与えるカタチもありました。

一緒に行った人たちと「ちょっとモヤモヤが残るよね」と帰り道に話しをしていたくらいです。

それでも、どういうわけか「よくわからない」と思うものがあちらこちらにある空間にいることで、肩の力が抜けるような、強張った身体が少しほぐれたかのような、癒される感覚を抱いたんです。

普段仕事の悩みなどで、わからないことがあってモヤモヤしていると、心底心地悪いのに。

どうにかしようと、ジタバタしたり悶々と考え込んだりするはずなのに。

エヴァ・ファブレガス からみあい
人間の腸のカタチをしています
めだまがこっちをじっと見えているようで、引きつけられた作品


この癒しはどこからくるのだろう?

あとになって思ったのは

「"わからないもの"がわかるように加工されず、"わからないまま置かれている"というところに、”不自由さではなく自由”を感じるているのかな。心がしがらみから解放されて、楽になったのかもしれない」

ということ。

なぜなら
日常生活は何でもわかりやすく明らかにすることを、常に求められているように思うからです。

学生の時は学校の試験で、問いに対して正解を出すことを求められました。

就職してからは、誰が見てもわかるような資料を作ることや、端的に答えを回答することが求められます。

ニュースを見れば「○○について、説明責任を果たすべきです!」と、明らかすることが叫ばれて、情報は真実かウソかは別として、わかりやすく、何を伝えたいのかを明らかになった上でわたし達の耳に入っていきます。

「誰にでも伝わるようにしなければならない」
「物事を推し進めるためには目的を明確にしてみんなで共有しなければならない」

それは社会で生きていくのに当然、必要なことではあります。

ですが、行き過ぎると時として「よくわからないもの」を徹底的に排除して、"わかりやすくしなければならない"が強迫観念となり、考えや感情を縛りつけられてしまうようにも思います。

私にとって横浜トリエンナーレは、誰にも、何にも、明らかにすることを迫られていない空間でした。



前置きが長くなりましたが…

アトリエYOU MORE!というアート思考を体験する講座で、横浜トリエンナーレで感じた「わからないが心地いい」感覚を思い出したので、ふりかえっていました。

※アトリエYOU MORE!は、最高傑作な自分作りアート講座講師である二木景子さん主宰の講座です^^

こちらの講座で学んだことは今後もこのnoteで発信していく予定ですので、また遊びに来てくださいね!


さて、やっと本題に入ります(笑)。

5月のYOUMOREでは「目隠しペアワーク」をやりました。

絵を見せず、ペアを組んだ相手に何が描かれているのかを言葉で説明するワークです。

私はこちらの作品についてペアの人に説明をしました。
絵を見せずに伝えるのは本当に難しかった(笑)

『レースの帽子の少女』 ピエール・オーギュスト・ルノワール

パッとみた感じは「レースの帽子を被った、横を向いている髪の長い女性」。伝えやすいかなと思い、この作品をワークに使おうと選びましたが細かな部分を伝えきれませんでした。

たとえば、レースの帽子はピンクのリボンがついているように見えますが、どんなリボンがどんな風についているかや、レースのフワフワ感を言葉にするのが難しく感じました。

「ふわふわ」と言っても、綿あめのようなのか、布団のふわふわした感じなのか、ひとことにもいろんな意味合いが含まれますよね。

また、この女性の表情はあきらかに泣いたり、怒っていたりしているわけでもなさそう。だから、私自身、この女性の表情はどんな感情からくるものなのかわからず。。。表情についてもうまく説明ができませんでした。

なかでも印象に残っているのは、背景の説明として私が「青と緑が混じっている」と言った時に「混じるってどんな風に?」とペアの方から質問されたことです。



そりゃそうですよね。

絵を見れている私からすると「混じるは、『混じる』だ」と当たり前のように言っていますが、絵を見ていないペアの方にとっては渦のように青と緑が混じっているのか、ストライプの線を描くように混じり合っているのか、わかるはずもなく…

「混じっている」の一言を当たり前のように言っていた私は相手側の立場に立って考えられていませんでした。

このワークでは、物事を伝えるためにはわかっているだろうと思わず、丁寧に説明することの大切さを学んだわけですが、

そのほかにも私にとってもう一つの発見がありました。

ペアワークでは、面白さと安堵感も感じたんですよね。横浜トリエンナーレで感じた、わからないって心地いいを思い出したっていう、冒頭の話です。


目の前の人と「わかりあえていなかった」ということは

「わかりあう余白がある」ということであり、まだまだ発見や面白さを分かち合えるしお互い型にハマらずに接することができる。

そう思えるだけで救われた気持ちになったというか。


日常の会話のなかで

「あなたは、〇〇だよね」と断定した言い方されると、たとえ正しい側面があったとしても、何となくもやっとイヤな気持ちになりませんか?

私は、自分という人間が定められて逃げ場がない窮屈な感じがします。

目隠しペアワークではコミュニケーションとして成り立っていない部分もあったけど、「分かり合えていないからこそ、わかり合おうとすることができるな」と、
ちょっと希望が持てる気持ちになれたのかもしれません。

伝えるために、あれこれ考えて試してを繰り返していたから。伝えることをあきらめないプロセスは何だか愛おしいなぁとも思いました。


、、、とここまでつらつらと書き進めましたが

私はまだまだ分からないことがたくさんあって、向き合うことがたくさんある。だからこそ、その分味わえるということ。味わい尽くす楽しみが残されている。

「わからない」は時として、光が届かない深い海や全てを隠す深い森のようで、底知れない不安をもたらすこともあるけれど、

力まず、構えず向き合ってみるとまた違った見え方がしてきて「わからない」を楽しめそうです。


今日はここまで。
最後まで読んでいただきありがとうございました。










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