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コミュ障のあれこれー人は人を心から嫌いになれない生き物のはなし

私の経験と感覚からすると、人はどんな人も嫌いになることはできません。


このように書くと「いや、あの人のことは嫌いだよ」と思うことがあるかもしれませんが、自分が嫌いと思ってるのは、その人の言動や在り方のことで「自分はそうありたくない、こうありたい」と、自分にとっての正解が既にあるのを知っているから違和感を感じるのであって、存在そのものを自分の中から排除することはできません。全ての存在は「私はどうありたいのか」と自分を決定するためだけに存在してるそうです。


私は一度離婚していて、前の旦那さんは外国人でした。


彼はいつか母国で政治的な活動をするのが小さい頃からの夢でした。でも私は、今世では、自分の個性を思う存分味わって表現して、好き嫌いをはっきりさせて、飽きたら違う方向へ進み、段階が終わったら後腐れもなく別の場所に移動することが好きな性分なので、その自由を味わえない、政治的な云々の暮らしには微塵も興味がなかったので、結婚生活中は漠然と「あぁ、いつか離婚しなきゃ」と思っていました。


「離婚しよう」と決めてから、旦那のことが嫌で嫌でたまらない状態が続きました。同じ空間に入れない、顔も見たくない、声も聞きたくない、自分の世界から一切消えてほしい。


そう思っていることは離婚直前の私の最大の悩みでした。あまりにそれについて嫌な思いをしたので、カウンセラーさんのところへ行って相談するくらいでした。


するとそのカウンセラーさんは、「悩みの原因は、そこまで自分は人を嫌いになれる生き物なのか、と自分を疑っていることです」と言いました。続けてこのように質問してきました。


「旦那さんとしては嫌いでも、人としてはどう?」


私はすぐに「人としては大好き」と答えました。それは本当だったからです。


前の旦那は人としてはとても素晴らしい人でした。一生懸命働いていて、人情深くて人を助けて、優しくてわがままを聞いてくれました。結構寛大で、少しくらいおバカでも許してくれる人でした。


なので、彼と会ったことがある人は私に「なんで彼のことが嫌いなの?」と不思議がりました。


でも私は離婚したかったので、それが正解とわかっていたカウンセラーさんはことあるごとに「でも旦那としては嫌い」とはっきり言ってくれました。


人としては好き。でも○○としては嫌い。これはどちらも間違っていません。なぜかというと、自分を決定するためにはいつもどんな時も、必要ないことを「これはいらない」と取捨選択が必要だからです。


より自由な自分、より進化した自分になるためにはいろんなことを経験して、そこからそれがどういうことか知って、さらに自分の進みたい道を考えていきます。人が人生を生きるということはその連続だとわかってきました。


そのための大きなチームワークが用意されているのが人生だそうなので、遠慮なく自分の役に立たないものは捨てて、楽になれたりワクワクしたり静かになれたり穏やかになれたり熱くなれたり元気になれたりする方を選ぼう、と自分に許可すると、それに付随してどんどん在り方が変わっていきます。


その差を味わうために、今までの古い価値観があったりするので、全てを自分の都合のいいように捉えて、落ち込んだら休んで、自分に対して味方でいて、「あぁやっちゃった」と思っても、「よし、次は頑張ろう」と前向きになると、楽だと思います。


周りの人間のことがどうも気に掛かる、どうもモヤモヤする、と感じる時は、大正解なので、遠慮なく嫌だと思い、その感情を「なんでそう思うんだろう」と落ち着いてちょっと探ってみると、面白いことに気づくかもしれません。


読んでいただき、ありがとうございました。何かの参考になれたら嬉しいです。


sayaka

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