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「仕事」という強制力が生み出した私の変化

みなさんには人生が変わった出来事や物事はあるだろうか。
POOLO JOBの課題にこのテーマがあり、悩みに悩んで、パソコンのデータをひっくり返していたところ、転職時のメモと職務経歴書、履歴書が出てきた。

あれから7年。
ここいらでつらつらと「仕事というものが私に与えた影響」を書きつつ、自身の振り返りも行っていきたい。

読者のみなさんには退屈であろうが、お付き合いいただければ幸甚である。


仕事に出会う前:コミュ障だった過去

私は、コミュ障だった。

どんな類のコミュ障だったかというと、恥ずかしがり屋だったり会話が成り立たないものではなく、人に興味がないタイプのコミュ障であった。
普通にそこそこコミュニケーションはとれるし、プレゼンテーションも得意な部類だったが、会話は続かないし、深掘りができない。
クラスが変われば、どんなに仲が良かった友達でも、一切話さなくなるくらい、人との関係づくりが下手だった。ある種、リセット症候群だったのかもしれない。でも、それでも良いと思ってた。

たぶん、中学時代にクラスメートから無視されていたことも影響しており、「どうせ人の気持ちは移ろうものなので、仲良くなるのも面倒」とも考えていたからだ。

ちなみに、中学時代のいじめが始まった理由は、「塾に行っていないのに、成績が上位」という、とんでもなくくだらないものだった。
だが、そんないじめも、粛々と受験の準備を行い、淡々と日常を過ごしていくうちに次第になくなっていった。それどころか、逆にリーダー格の方が無視されるようになっていった。まさに、諸行無常である。

だが、コミュ障のくせに、なぜか「人の心の動き」には強い興味があり、人が物を購入するプロセスを学びたいという思いで、マーケティングや経済学を学ぶことができる大学に進学。

ここからが、「人が動かす経済」への探求がはじまった。

新卒時代:一生食べていけるスキルの獲得を目指した就活

私の就活のテーマは、「人生80年。さまざまなライフステージに出会う(はず)の女性が、一生食べていける力を身につける」というものであった。

正直、今でもなにが「一生食べていける力」なのかは、明確にはわかっていない。

そもそも私が、この思いを今でも持ち続けている背景には、育ててくれた母に対して、幼少の頃から感じていた思いが大きい。
母は非常に尊敬できる人物で、自分の母親の介護をしながら、職を転々とする父を支え、3姉妹を育ててくれた。
ただ、両親の仲が悪い家庭だったこともあり、早く離婚してほしい、とさえ思っていたのに、世間体と母自身が仕事に就けない(子育てと介護)のでできなかった。さらに、母は事あるごとに「昔はハワイに何度も行った」「昔は全身ブランド品だった」という話をしていた。これは自慢だったのだろうが、過去への執着を感じてしまい、家庭に入って自由に使えるお金を奪われることの怖さを、子どもながらに感じていた。

さて、話は戻り、この「一生食べていける力」を模索するため、具体的な就活時は下記を軸として設定した。

・いろいろな業種の人と関わることができる
・人の「集客」に関わることができる

この2軸に決めた理由としては、

  • 真面目に就活をしていなかったので、入社した後も転職のための業界研究ができるようにしたかった。

  • 集客に悩む人が多い(と感じていた)ので、人が購買するプロセスを学ぶことが、一生食っていけるスキルの一つだと思った。

以上の軸で就活を行い、一番最初に内定を出してくれた北海道の印刷会社に入社することになる。

この印刷会社では、通販商品の仕入れからオペレーション、通常の印刷会社の営業、フリーペーパーの編集、各種イベントの企画運営など本当に様々なことを経験した。

社内外で調整が必要だったため、働き方もかなりハードであったが、なにより一番学びになったのは、「新たな仕事を作る経験ができたこと」である。

というのも、入社半年目で所属する部署がなくなってしまったのだ。

原因は課長の精神的な病と、部長の東京支社への栄転。
部署がなくなったあとは、なぜか引き取り先がなかった1つ上の先輩と同期の計3名で、部屋を転々としつつ、事業計画をたてて、新規事業を作ることになる。
予算獲得のため、社長にプレゼンをするのだが、当然作りこみが甘いのでなじられる。そして、いろいろな部署を歩き回り、アイディアをいただいて、またプレゼン、ということを繰り返した。

本当にいろいろな部署の諸先輩にはお世話になった。

ここで、数字の達成と情報収集(アイディア出し)のためには、営業力と人脈づくりは欠かせないものだ、という思いを強くした。

2社目:人が重要と思える仕事に出会った

そんなこんなで一通り業務の経験をさせてもらい、5年目の春。いろいろとあったこともあり、2社目への転職活動を開始した。

転職の軸としては、下記のとおり。

・前職で、北海道のPRにおける弱さを認識していたので、それに携わる仕事をしたい。
・北海道の人と、なにか新しい「仕事」を作ることができることがしたい。
・営業自体は楽しかったので、営業の職種または、北海道に関わる商品の企画職
・営業は好きだが、直接BtoCの仕事はしたくなかったので、BtoGかBtoBの営業・企画
・いろいろな経験を積みたかったので、中小企業
・オフィスにいると息が詰まるので、適度に外に出られて、かつ気分転換ができる仕事
・人脈が作れそうな仕事(いちいち転職活動をするのは面倒なので、次の転職時は紹介で入社できる人脈もほしい)
・商品を作り、販売したあとも市場の反応をみることができる商品を取り扱っていること。

これらの軸を作るために、自分が得意にしていること、不得意にしていること、いやなこと、好きなことを徹底的に分析したのだが、話が長くなるのでまた別のお話しに。

相変わらず、人と深くコミュニケーションは取れなかったものの、営業自体は苦ではなかったので(むしろ得意だった。ゲームのようだった)、営業職を希望した。

それから、1か月半の転職活動の後、幸いなことに数社からオファーを得ることができた。
その中の一つに今の旅行会社があった。

正直、今の会社よりも大手で、かつ給料の良いところからもお声がけはあった。
ただ、再三述べているとおり、一生どこかで働きたいと思っていた私は、一生使えそうな「スキル」と「実績」、「人脈」ができそうな会社を選んだ。

ちなみにこの時私が選んだスキル(実績)は下記。

・行政案件の獲得ができること。いわゆるBtoGビジネスができる。
・うまくいけば英語での仕事の実績が作れる。ついでに英語運用能力が向上できる。

正直、この会社の選択は間違っていなかったと、今でも思っている。

BtoGのお仕事。
地域の潤滑剤や起爆剤としての補助金の使い方や処理方法を学び、地域や業界の課題を解決できるほどの大きな力の制御方法や社会の仕組みを理解することができた。
さらに、関係者をうまく調整していくことで、大きな動きやうねりを作ることができる。要はお金も大事だが、人が重要である。

次に英語。
転職時、私の英語能力はというと、TOEIC600、留学経験もなく、海外旅行の経験すらもほとんどない状態だった。しかし、いろいろな仕事にチャレンジさせてくれたことで、「外国人との折衝経験」の実績がついた(もちろん今はちゃんと資格もある)。
これで、海外の人も巻き込める力もついてきた。

最後に、「人脈」である。
営業においては、人脈が一番売上に貢献する要素である。お互いにWin-Winの関係ができれば一生、それこそ会社が変わったとしてもその関係性は変わらない。(観光業界は本当に人の入れ替わりが激しく、多種多様な働き方をしている人が多い)

さらに言えば、この人たちとはプライベートでも濃密な付き合い方をする。正直最初は「お付き合い」で頑張っていたが、深く話せば話すほど色々な考え方があり、それこそ人生に影響を与えるようなお話を伺うことも多く、今では話を聞くのが楽しいまである。

人との関係が、仕事にもプライベートにも大きな影響を与えるということを、この会社に入社してはじめて感じた。

今後のお仕事に対する考えかた(2024年5月時点)

そんなこんなで、今の会社も7年目。今後について考えていきたいと思う。

器自体はどんな形かまだ決めていないが、今後は「北海道で」「やりきる」「続ける」「次世代につなげる(その前に私が次世代になる)」をテーマに活動をしていきたいと思っている。

今つながっている人たちが非常に面白い動きをしているので、次の世代にその動きを伝える語り部の役割を担いたい。

だが、そのためにはいろいろな人の協力も必要だし、仕組みも必要である。
今はその手段をいろいろな人に出会って、話を聞きながら、模索中である。


以上、人に興味がないタイプのコミュ障だった私が、「人の考えを後世に繋げていきたい」とまで言えるようになった変化のお話しである。

この考えに至ったのも、仕事というある種の「強制力」があったからだと思う。

観光業界にいなかったら、営業職にならなかったら、これが仕事じゃなかったら、こんな考えには至らなかったとも思う。

これからも、いろいろな考えに影響されて、思考自体も変わっていくかもしれないが、人とのつながりは大切にしていきたい。

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