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自由になることとは、自律すること

あぁ〜、自由になりたい。

しがらみとか、仕事とか、勉強とか、家族とか、そんな嫌なことから、全て離れて、少し自分の自由にさせてほしい。

人それぞれ、悩み深さの大小こそはあるかもしれないが、誰もが一度はぼーっと「自由」について考えたことがあるのではないだろうか。

しかし、いつになっても「自由」という感覚を得るのは難しい。

それでは・・・
・どんな状態が、自由であると言えるのか?
・自分自身のどんな姿が自由な状態になっていると言えるのだろうか?

そんなことに考えを巡らせてみる日も、人間としての器を一回り大きくするためには、大切な経験になるのでなないかと感じる。

人は人との関係性の中で生きている

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私の人生は私のもの。
だから、何をやってもいいじゃないか!

誰もが、こんな思いを一度は持ったことがあるのではないだろうか。もちろん、この記事を執筆している私だって、私の人生は私のものであると長いこと思い込んでいた。

しかし、本当に私の人生は私だけのものであるのだろうか?

そんな根本的な自分自身の価値観に疑問を呈するのも面白いことである。自分の価値観を俯瞰的に考察してみると、私の考えは愚かであったようにも感じる。

「人間は一人では生きていけない」なんてことがよく言われるが、経済的に自立し一人暮らしをしていれば、私は一人で生きている!といった幻想にかられ、きっと相手に反論もしたくなるであろう。

でも、職場には一緒に働く仲間がいて、休みの日には少しリフレッシュをする友人がいて、長期休暇には、帰る実家があって・・・。

少し考えを巡らせただけでも、たった一人の私という人間は、どれだけ多くの人々と関係性を築き、その人々に支えられて生きているのかと思うと、私は一人では生きていないことを実感する。

たとえ経済的に自立し、一人で生活しているとしても、私は人に助けられながら生きてはいないとは、言い切れないなと思うのである。

そう、人との関係は、そう簡単に切れないのである。

自由になることとは?

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それでは・・・
あぁ、自由になりたい。

と思ったとき、私たちは何から自由になりたいと願っているのであろうか。もし、私たちに降りかかる事柄が、私たちの欲求や欲望を全て満たしてくれるのであるならば、きっと、私たちは「自由になりたい」なんて思わないであろう。

そう想定すると、自由になりたいと願う状況とは、「嫌なことから逃れたい時」であるのではないかと考ることができる。

勉強が大嫌いな人であれば、勉強というものから自由になりたいと願うであろうし、実家暮らしにストレスを感じている人がいれば、一人暮らしという自由を得たいのかもしれない。

その嫌な状況から逃れることを、きっと人々は「自由になる」と表現しているのであろう。

しかし、「全ての嫌なことから逃れる」という欲望が達成できた時こそが、本当の自由を得た時なのであろうか?

実は残念なことに、人は一人では生きていけない以上、そして、誰かと共存しながら生きていく以上、みんなが嫌なことから逃れる欲求を十分に満たすことはできないのだ。

それが認められてしまうと、みんながみんな、自分のやりたいことばかりをする「自由な世界」ができてしまう。

自律することで、自由を感じられる

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嫌なことから逃れることを自由と表現するとしたら、考えれば考えるほど、現実的に、そんな自由は私たちの社会では実現できないと分かるであろう。

仕事が嫌だから仕事はしないけど、お金は欲しいから、誰かにお金を欲しいだけもらって、自由奔放に自分の好きなことだけ楽しんで生きていく

なんて夢のような状況は、実在しないわけである上、きっと、このような状況に私たちが置かれたとしても、そうなってしまった時には、また新たに、自分の状況の何かしらに不満は生じるものである

それが人間であり、結局人間は、誰か自分とは違った価値観を持つ人間との関わり合いの中で生きていかなければいけないのだから。

そうした時に、結局「嫌なことから逃げる」という行為では、人間は本当の自由を手に入れられないのである。

となると、私たちはいつ自由になりたいという欲求が満たされるのであろうか?

それは、きっと、私たちが「自律」した時である。

私たちの社会は、法律というルールに基づき、異なった価値観を持つ人々と適切な距離感で関係を築いている。つまり、私たちの社会活動は法で律されているわけなのである。それが、異なった価値観を持つ人々の均衡を保つための重要な要素なのである。

一方、自律とは、自分の欲求を道徳心という名のルールで、自分の行動を制限することである。

それが、どうして自由につながるのだろうか?

それは、自分を律することができると、自分の欲望のままに行動をしなくても、自分の現状に充実感を持てるようになるからである。

たとえば、大嫌いな勉強をするという行為についても、自律している人間であれば、その勉強という嫌いな行為にも、目的意識を持ち、前向きに取り組む姿勢が見られるようになる。その精神的な状況を持って勉強に取り組める者は、人一倍勉強に対する充実感が高いと言えるであろう。

このように考えてみると・・・

もしあなたが、今の現状や、所属集団など、誰かに縛られ、不自由を感じているのであれば、他者に「不自由さ」の原因を押し付けるのではなく
まずは・・・
・自分自身が自律した人間であるか?
・人生に目的意識を持って、その集団に所属しているのか?
という点を考えてみると、今の不自由さから脱することができるのかもしれない。

結局、人は、社会の中で誰かとの関係を築き生きていかなければいけない以上、必ず自分の嫌なことから逃げることはできない。

となった時、自分はどのような状況であれば、嫌なことを前向きに、自分のためになっている!と捉えて取り組むことができるのか?

そんなことを考えるのも自律の一歩であり
また、それを考えることこそが自由の一歩でもあると、私は考える。

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