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もやもや言葉 -私は心が綺麗だから。-

「学生で羨ましい」
 これは一歩先に社会人になった友人が放った言葉。学生が楽、と言われたようで嫌だった。その頃私は自分でアルバイトをして大学院の授業料を払っていて、ゼミ発表とかなんとかも重なって、研究室のメンバーの研究への意識の高さにやや萎縮し辟易ていて、学業に後ろ向きだった。社会人が忙しいのはわかるけど、好きなことをしてお金をもらえるならそっちも良いじゃんと思ったし、そんなこと言うならそっちだって院進すれば良かったのにと思った。お互いに大変なこと、見えないところで努力していることがあるのだから、想像力をもってリスペクトし合えたら良いのになぁともやもやした。

「どこかは内定でるよ」
 就活中に言われた言葉。励ますために言ってくれた言葉なんだと思う。でも、どこかじゃ駄目なんだ。幼い頃からの夢があって、憧れの姿があって、そこに向かって希望をもって進んでいる人に向かって言うのは違う。Take it easyを伝えたかったんだと思うけど、Give it upと受け取られてしまう。てか、私がどこを受けてるのか知らないじゃん。じゃあ何て言えば良いのかっていうと、それは難しくて、下のようなケースもあった。

「絶対受かるよ」
 大学院の入試の前に言われた言葉。無責任だと思った。私が何を専攻しているか、どんな研究科を受験するのか。入試の科目は何か。そんなことを聞いてすらいないのに、何も知ろうとしないのに。それよりもどんな勉強をしていて何に困っているのか、そんな話を聞いてほしかった。一緒に院試を受けた友人は不合格だった。絶対受かることなどないフィールドで戦う人に対しての「絶対受かるよ」は、その人の立場を無視することになるのではないだろうか。でも、受かったらちゃんと報告したくなったので、私ってチョロいなと思った。

「人に恵まれた」
 インスタのストーリーなんかでときどき見る言葉。特に、年末とか。「今年は人に恵まれました、ありがとうございました」なんて見ると、もやもやする。「去年は恵まれてなかったの?」なんて突っ込みたくなっちゃうし、仮に私が去年その人に何かをしてあげた立場だったりしたら怒っちゃう。というかそもそも恵まれるって何?恵まれてないってどういうこと?そもそも貴方はどんな権限があって周りをジャッジしているの?ちゃんと答えられないなら投稿しないで!とまで思っちゃう。ほんと自分って性格悪いなぁと思うが、もやもやするのは事実。

 もやもや言葉は、ちくちく言葉とは違う。悪意なく発せられるし、同じ言葉を聞いてももやもやしない人もいる。もやもやしない文脈もある。自分の、つまり受け取る側のコンディションや体調、ちょっとしたタイミングなんかでもやもや度が変わる。だから厄介だ。
 結局どんな言葉を選んでも、番犬ガオガオくんをプレイするときみたいに、誰かのもやもやスイッチを押してしまいそうな不安が付きまとう。逆もまた然りなので、何を言われてもあんまり気にしすぎない方が良い。でも、そうしたら言われる側の問題となってしまい、それはもやもやするので私はこれを書いた。何かを主張した人が共感を得られなかったとき、勇気を出したその人が傷つくことがある。ちょっと感度の高い人や、気を遣える人が損をすることがある。誰も悪くなくても、犠牲になる人がいるという構造。
 そんな社会に対するもやもや言葉なのだ。

「さやは心が綺麗だから、さやにはわからないよ」
 これは高度なもやもや言葉。褒めているようで、突き放されている。どんな権限があって私をジャッジしているのだろう。私だって子供じゃないのに。嫌なことも理不尽なことも悔しいことも今まであった。心が綺麗じゃない日もあったのに、勝手に常に心が綺麗なことに決めないでほしい。私の過去を、もがいていたことをなかったことにしないでほしい。みんなの前で心が綺麗に見えるよう感情をコントロールして頑張って振舞っていたの。それなのに、その上から目線の「わからないよ」とは何事?

でも、私はそんな反論を面と向かっては言わない。
ほら、私の心は綺麗だから。



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