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"もういないあの人"について


先週始まったフジテレビ系月曜9時の『海のはじまり』の主人公が誰であるか、について思いを巡らせている。

もちろん、公式の正解は「目黒蓮」である。

でも問いをちょっと変えると、答えは変わってくる。

この物語を動かす中心人物は誰ですか、と聞かれた時、それはやっぱり主人公であると答えるのが正解のように思えるが、違う。

物語を最も大きく動かし、
登場人物の全ての行動に影響を与え、
最も長い時間考えられているのは、
"もういないあの人"だ。

物語は、目黒蓮演じる青年が、学生時代に破局した元彼女の訃報を受け、8年の空白のあいだの出来事-彼女との間に出来た子どもが生きて育っていたことを知り、動き出す。

有村架純演じる現在の彼女との関係性の変化、義理の父母とすらいえない、元彼女の両親との軋轢や葛藤、そしてもちろん、突如目の前に現れた娘への当惑と恐怖、その小さなゆらぎがさざめき合い、いま現在の主人公に問う。


「お前はどうする」「お前は今、どこに立っている」。

この物語には、最初から最後まで絶対的な存在がある。

もう決して目前に現れることのない、主人公にとっての元彼女である。子どもにとっての母親であり、母にとっての娘である彼女は、”もういないあの人”として、決して現在軸に現れ台詞を言うことはなくとも、確実にこの物語の最後のときまで、最も偉大な存在感を残し続けると決まっている。



なぜならこの物語は彼女の死によってしか始まらなかったからだ。

それぞれが違う本に書き進めていた人生の物語に、「ちょっと待った」をかけ、強制的に自分の本の「あとがき」に招集したのは彼女だからだ。

彼らはいつ何時であっても、もういないあの人を感じている。

あの人はなぜ、あのとき嘘をついたのか。
あの人が言ったあの言葉は、どのような意味だったのか。
あの人に、この言葉をかけていたら、今は変わったのだろうか。

あの人はいまの自分に、何を望んでいるのだろうか。

もう決して答えを教えてはくれない過去のあの人に、心の中で何度も話しかけ、問いかけ、後悔し、戻らない時間に絶望し、忘れようと努力し、忘れたくないと必死になり。

そうして登場人物は自分の現在地を知り、目的地を見つけ、道を拓いていく。

まだ2話が終わったばかりだがーそして、古川琴音演じる"もういないあの人"は、もう1話の最初で死んでしまったのだがーそれでも、この物語の主人公は、目黒蓮のようであって、有村架純のようであって、その実、古川琴音なのだと思う。


かねてから、日本で紡がれ、人々が心を傾ける物語には"不在の人"の存在があるように思っている。


それはきっと小説でも、映画でも、演劇でも、漫画でもそうなのかもしれないが、特に私自身がそれを強く感じるのは、どうやらテレビドラマに多いらしい。

わかりやすい例で言えば、『アンナチュラル』がそうだ。石原さとみ主演で2018年にTBS系列で放送されたこのドラマは、原作のないオリジナル脚本で製作された1シリーズのドラマだが、熱狂的な支持を集め、未だに多くのファンを抱える。

この物語の公式の主人公はもちろん、石原さとみ演じる法医解剖医である。
けれど物語を進めるのは、彼女のようであってそうではない。
彼女の努める不自然死を専門に扱う研究所は、死因のわからない死体が運び込まれ、各エピソードは基本的にその死因究明を主軸として展開する。

つまり、どのエピソードも、もう決して戻らないあの人の話、なのである。

彼が彼女が最後に見た景色は何なのか、という、刑事事件的な死因究明の要素を持ちながらも、この物語がこれほど多くの人の心を掴んだのは、そのクライム・ミステリ的な側面ではなく、むしろその前の物語を紐解く場面にあったのだと思う。


なぜそのような行動をしたのか。

何を思って、誰を想って、何のために、彼らの死はあったのか。

遺された者たちが、法医学の力によってその問いに答えを出し、生きようと再び立ち上がる姿が多くの視聴者を集めた。


出した答えに、死者が正解の判子を押してくれるわけではない。彼らの心境は、本当の意味ではわからず終いかもしれない。

それでも、"もういないあの人"が死んだ意味を、あの人のいない世界でも自分が生きていく意味を手探りで見つけ立ち上がる遺された者たちの姿は多くの視聴者に鮮烈な印象を残した。


この物語は独立したエピソードと共に、メインキャラクターである石原さとみと井浦新演じる2名の解剖医それぞれにいる"不在のあの人"についても話が展開されていく。

彼らもまた、"あの人"が何を思っていたのか、彼らの死に、遺された自分の過去に、今に、そしてもう共に歩む可能性はゼロである未来に、何の意味があるのかをもがき苦しみながら知ろうと生きている。


視聴者は常に、"不在のあの人"によって今現在、生かされている登場人物たちを見つめ続ける。
彼らの存在は"不在のあの人"に対するそれぞれの想いの反響によって立ち現れていることを暗に知る。

彼らの現在地は、"あの人"がいた過去を起点としている。知らず知らずのうちに、時間軸の始まりはいつでも"あの人"なのだ。

それはとても悲しく、孤独なようであって、それでも確実にその昔にやり取りされた真心があったからこそ起こっていることがわかるから、どうしようもない切なさを見る者に感じさせる。


そうして私たちは、彼らが"あの人"を完全に過去に置いて、自分の時間軸を生きて未来へと向かうようになるまでの道のりを見ている。


これも大きな反響を集めた『最愛』というドラマがあった。2021年、TBS系列で吉高由里子主演のオリジナル脚本だ。

ここにも"もういないあの人"が登場する。主人公の父である。
物語の始まりに亡くなった父は、多くの謎を残したままもう決して真相を語らぬ人となった。主人公と弟は、父がなぜ死ななければならなかったのか、父が何を守るために自らを犠牲にしたのか、大人になって知ることになる。

もう二度と生きては会えない娘と息子に、最後まで真相を告げず、自分の命が終わってもなお嘘を貫き通す父の姿は、多くの視聴者を泣かせた。

父の口からは最後まで語られることのなかった真相を、父が死に、もう謝ることも感謝することも出来ない現在に知る。

そしてそれこそが、父の掛け値なしの愛情であったことがようやくわかるからこそ、後悔は止むことはなく、絶望は深く、そんな夜を何度も乗り越えて、父に与えられた人生を自らの足で踏み出して進んで行かなければと奮い立つ。

ここにもまた、映像尺の数%にも満たない出演時間にしてもなお、最も大きな影響を与え続ける"もういないあの人”がいる。

そのように考え出すと、『海の始まり』や『アンナチュラル』のように、物語自体が"もういないあの人"によって動かされているものもあれば、『最愛』のような登場の仕方をする不在の人物もいるわけだが、これほどまでに話の中心に"もう存在しない人"が据えられて、それを人々が真剣に享受する環境は、日本ならではなのではないか、と感じている。

話が脱線しすぎるのでまたいつか話したいが、私は韓国語話者でもあるので、韓国ドラマにはかなり精通している方だし、欧米圏のドラマも好き嫌いせずに見る。
それ以上に広がってローカライズされたドラマを視聴する習慣はないものの、私が触れてきた国外のドラマには、(もちろん死んだ人の話が出てくる物語は数えきれないほどあるものの)"もういないあの人"が絶対的に物語に君臨し、現在の登場人物の行動や変化の起点に居続けるような物語は極めて存在しにくい、と感じる。
(『13 Reasons Why』は、そういう意味では近年のアメリカドラマとしては"不在のあの人"が主人公と言って過言ではないが、これはクライム・サスペンスの仕掛け装置としての機能なので、やはり上にあげた3作とは期待された役割も視聴者の捉え方も違うだろう)


言ってしまえばだからつまり、これは極めて日本独特の物語の湿度なのかもしれない。

もの凄く言葉を選ばずに言うと、後ろ向きで、過去のことに思考を囚われ、クヨクヨしている状態がベースにある話を、風土として好まない土地の方が多いのではないか。
どのような人物と関わり、どのような思いを積み上げて、どのような昨日を経て今日があるのかを感じ取ろうとするのは、仮の大陸では体質に合わないとも想像できる。

さて、ここからは単なる仮説なのだが、
(本当は私にアカデミズムでこれをやる時間が与えられるなら、大学生に戻って文化表象論の恩師とこれについて真剣に討論したいものである)

日本には説明の出来ない死が元来多いことが、このような物語をうみ、それが人々に受け入れられる土台を作ったのではないか、と私は考えている。

説明出来ない死というのは何も解剖医が必要になるような不自然死のことではなくて、「理由もなく、突然に訪れる死」である。

それは多くの場合、前触れもなく、残念ながらその人である意味も説明されることはないままに、ある日ある瞬間、日常に突然に訪れる。


この島国にはかねてより自然災害が多い。

人間にはどうすることも出来ない多くの天災は、ときに一度に数万人の命を奪い去る。

つまりこの国には、自らの人生を共に歩み、これまでの自分をかたち作ってくれた"あの人"を、本当に何の前兆もなしに失った人々はあまりに多い。

そして運よく、自らがまだそのどちらでもない人間であっても、誰もがうっすらと、明日には自分がそうなる可能性を横目に感じながら生きている。

あの人はなぜ死ななければならなかったのか。
死んだあの人は、自分に伝えたいことがあったのではないか。


あの人は死んで、自分が生きているのはなぜなのか。


決して正解を教えてもらえない疑問を問い続けて生きる人々を、私たちはこの土地に数えきれないほど抱えている。


残念ながら、答えはない。理由はない。
自然は等しく残酷に命を奪う。あの人が死んで、自分が生きたことに恣意的な理由は基本的にはない。納得のいく理由は天から与えられない。


自分の人生にあの人が必要な理由は100個並べられても、あの人がいない人生を生きていかなければいけない理由の、そのたった1つを見つけることは難しい。時に、命を続けることよりも難しく感じてしまう。
専門用語では「サバイバーズギルト」と呼ばれるこの喪失感情は、世界のどこにももちろん存在し得るが、自然災害という、何の感情もない力を相手に取った時、この島国ほど多くの当事者を生み出した土地はないだろう。


そんな土地に生きる人々だからこそ、フィクションに理由探しを求める。

自分と同じように、あるいはその可能性を常に持つ自分と同じようにもがき、苦しみ、前を向こうと必死に生きる物語の中の誰かが立ち上がる姿に、自らを重ねる。

登場人物が立ち上がれば、自分もきっと立ち上がる力を得るのだと信じることができる。
いやそれ以前に、"もういないあの人"を感じて日々を生きることを、全く別の誰かに肯定してもらうことそれ自体も、多くの人々の潜在的な安心であり、喜びであるのかもしれない。


不在の人について語るとき、それは時に「後ろ向きで、過去のことに思考を囚われ、クヨクヨしている状態」のように思えるかもしれない。

それでも、もうその場には存在しない人が、今を生きる誰かの感情に影響し、行動を起こさせ、誰かの未来を切り拓く。
それはやっぱり、私にはとても尊いことのように思える。

もう生きていないから話題に上がらないなんてことはないんだ、舞台から降りたわけではないんだ、筆は置かれるわけではなくて、その人の存在ごと巻き込んで、物語はまだ新しい文字が書き始められるんだ。

そんな、現在を生きる人々にとって、明日を生きるためにあるべき正解を与えようとする物語が生まれるこの国を、フィクションの世界を、きれいごとでも良い、私は好ましく思う。

日本の湿度だから生まれるこのかたちの物語が、これからも生み出され続けることを素直に願う。

そこには日本にしか吹かない風の香りを感じるから、この感情は大切にしたいと思うのだ。


『アンナチュラル』で井浦新演じる中堂先生のセリフを噛み締めて、"もういないあの人"の物語への、取り留めのない深夜の考えを終わらせよう。

「死んだやつは答えてくれない、これからも。
許されるように、生きろ。」

「アンナチュラル」第7話


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