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長崎異聞 8

 して、と彼は話題をすり替えた。
 相手は、醍醐の唯一の財産である私物を詰めた行李こうりを抱えている。
 先頭を行くのが吾郎左、後ろから支えているのが義顕である。いずれも長崎奉行所の大部屋の同僚である。彼らは地元の出身で義顕のみが士分であり、醍醐の先輩ではあるが同輩の口を利いても怒らない。
 その義顕が太い下唇を舐めて、好色な声で尋ねてきた。思案橋近隣に立つ街娼にも入れ上げ、腹には贅の脂が乗り始めている。
「してその娘、髪は金色なのか?肌は丸山の花魁よりも白いのか?白人は白粉が要らぬと聞いたぞ」
 醍醐は、はたと気がついた。
「儂は・・実はちゃんと顔を見てはおらぬ」
 初見では彼女の足に気を取られ、次が不逞浪人を睥睨へいげいし、家に招かれては亮子夫人に集中し、かすていらという珍味に驚いた。その後に現れた陸奥宗光の言に傾注していた。その折にも、脇に座るユーリアの顔をしかと見てはおらぬ。
 ル・アンジェで警固もした。
 が、彼女と来客は別室に収まり、その扉を護るのみだ。彼の気は四方に配られており、異国の居留民の動向を、足音ひとつ咳ひとつとばかりに窺っていた。
「覚えがあるとするなら、匂いであろうか?」の声に義顕が喰らいつく。
「お主、まさか」
「さにあらず。異国の娘は不可思議な花の匂いがするのよ」
「それは香の類か」
「いや、わからぬ」
 さて一同は清国民の住む新地に差し掛かる。
 ここも幕府時代には島の形状を保っていたが、海浜を埋め立てて地続きになっている。それでも潮の香りが強い。そして清国料理の香辛料や乾物の類から、この距離があろうとも、珍妙な臭いがむっとする。
 極彩色の楼門がそびえ、道服を纏う清国人らが楼門の下で煙管を楽しんでいる。さにあらんや一同が行李を持って差し掛かると、一斉に口をつぐんで無遠慮に凝視し始めた。
 醍醐が両手を空けているのは、この事態のためだ。じっとその狡猾な目を睨みつける。太く血管の浮いた腕を見せつける。
 行李の中身と側の侍を天秤に掛けさせる。さてはどう見極めるか。緊張の糸は解れ、再びわいわいと騒ぎ出し、この行李には興味を失う。
「おお、連中諦めたようだの」と吾郎左はほっと胸を撫で下ろす。
 農家の末子で寺に預けられていた。腕っぷしはなく、豆腐のように凡庸な顔立ちをしている。
「これでこの給金とは有り難い。醍醐、世話になったの」と義顕が先輩面を利かしている。
「何、出所は御公義の金よ。儂はそれで盃でも預かれればそれでよし」
 破格の給金が出されていたので、それで手暇な両人に頼んだ。後日、酒屋で一献の約束である。
「なあ、醍醐。話によるとその嬢と今晩より一つ屋根だわなぁ」
「馬鹿な、何を抜かすか」
「いや何、かんざしとか帯留めとか、何か手土産なども要ろう」
 橘醍醐は女心が分からぬ。
 だがしかし義顕には幾分の手練れさはあるようだ。
「引越し蕎麦もありまさぁ」と呑気な吾郎左。
 果たして彼女にそれが必要なものか。
 また異人の心持ちなど、雲の上の話だ。
 
 
 
 
 
 


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