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舵を取るものよ
クルマを貸してくれ。
不意にそんな電話が来て、私は仕事の手を止めた。
「ちょっと待って。今は手が離せないの。お昼にかけ直すから」
「了解」と言ってその電話がぷつりと切れた。
会社のデスクでは気まずいので。
バスケットを持って港公園にランチを取りにいく。オープンサンドと、ポットには珈琲を入れている。食後にスマホで連絡を入れるつもりだった。
夏が駆け抜けたビル群に、海からの涼風が届く季節になった。
やっと幌を降ろしてもいい季節になったな、と考えた瞬間に彼の思惑が透けて見えた気がした。
元々は彼のFIATだった。ボンネットに色褪せが目立ってきた小舟という名の2シーター。子供の出産を控えて持て余しているそれを、私に買い取って欲しいとよくも言えたものだと思った。
エンジンは元気に回るけど、時に駄々を捏ねてセルを回しても始動しない。私はそんなときは諦めて、もう一杯の珈琲を買いにいくのが習慣になっていた。
「デートをするんだよ。この時期だろ、あれで行きたいんだ」
ほらみたことか。
「奥さんは?」
「もうお腹大きいからね。家でずっと留守番だよ」
「いや、そういうことじゃなくて。デートということを知っているの?」
「やだな、接待だよ。取引先の新担当とさ。意気投合しての、そう親睦会だよ」
まあまあ、取引先が彼へのカウンターとして選んだ、飛び切りの女性担当なのだろう。手のひらで転がされている男子から卒業できてないのね。
「まあ、いいわ。明日に港公園まで乗ってけばいいの?そこで引渡しするにしても、鍵はどうするの」
「スペアを作ったのが、まだあった。次のデートか何かで返すね」
「別にいいわ。夜にはそれで帰るから。そうね、ガスは満タンで返してね」
もう縁を切ったあの男が、私の車となったバルケッタのキーを共有していたのは面白くない。
「ありがとう。恩に着る。また埋め合わせするね」
ため息を長くついて、そのあとで煙草に火をつけた。
もう日が落ちていて。
港公園のパーキングに向かった。
遠目にオレンジのボディが見える。
運転席を確認したが、彼の姿はない。
今日の首尾を尋ねるほど、執着をしているわけでもない。
ただあの席に彼の身体が数時間うずもれていて、助手席には知らない女がいたんだわ。そんなことをぼんやりと考えていた。腹いせに洗車にも出してやろうかな。
バックからキーを取り出して解錠すると、ウィンカーでウィンクをして返してくる。
こ洒落たドアノブを引いたときに、ランプが点灯しその存在を露わにした。濃密な花弁の匂いがする。それも香水の残り香などではない。
シートに身体を潜り込ませるときには、ほんのりと消灯していく。だけど香りはかえって濃くなった。
助手席には花束が置いてある。
紙袋も添えてあったので、街灯にかざして見る。
「カベルネの赤ね。今日はお肉料理でも食べたのかしらね」
そう、そんな男だった。
ワインボトルを紙袋に戻して、キーをイグニッションに刺した。
冷蔵庫にチーズがあったかな、と思案しつつ捻ると、エンジンが野太い声をあげて目覚めた。
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