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風花の舞姫 鏡鬼| 合わせ鏡

 鏡がある。
 その中にわたしがいるのがわかる。
しかしそれは現実のわたしとは別人のように、正反対の姿が投影されている。鏡面で上げている右手は、実はわたしの左手になる。セットした髪型もまるで違う。
 自分の姿を正しく認識したのは、児童園のお遊戯会で踊る自分を、母親のスマホで見たのが最初だと思う。
 それはまるで別人のようだし、声ももっと澄んで高い声だった。
「これ、あたし? ふみかなの?」とママに尋ねたことを憶えている。
 それほど疑うまでに別人に見えた。
 しかし第三者的には、まさしくわたしの姿だった。

 わたしのそっくりさんがいるという。
 山間にある国立大学のキャンパスで話題になっていて、友人から教えられた。
 松本市の女鳥羽川沿いに広がるそのキャンパスは、山脈に挟まれた手狭な都市には贅沢なほどの広大さであるけど。
 この街は、同時に二人が存在できるような、広い世間ではないはずだと思う。
 遠くから敷地内の球場で試合をしている声がする。金属音とともに大きく打球が飛んだらしく歓声があがる。
「昨日は史華は私と旭会館の学食にいたよね。3限目の後」
 わたしは同学の友人たちと、木立の中のテラスで、紙コップの生ジュースを飲んでいた。
「ええ、だってその時間帯はウチと珈琲美学でパフェ食べてたよ。休講になったからって、映えネタを探しに行ったのよね」
 ほらあ、って差し出された多英のスマホには、わたしの笑顔とモカパフェの2ショットが残っている。
 けれどもわたしが覚えているのは、学食で英文論文の全訳プリントを美晴から受け取ったことで、その実物はアパートに中にある。
「この写真って、本当に昨日のことなの?」
 撮影データを読ませてもらったけど、確かに時間と場所も正確に残っている。ところがキャンパスから、この喫茶店まではかなり遠い。松本城を越えて駅前まで行くので、自転車でも20分はかかる。そしてその道を疾走して往復した覚えはない。
「この写真の服って、昨日着てたのと同じよね。学食で見てかわいいと思ったから」
「ありがとう。古着屋さんで見つけたの。明治の頃のよ」
「史華好きだもんね。骨董」
「骨董というほどの価値はないけどね」
 そう。わたしは蚤の市というのが好きで、木造りのものとか、貝殻を使った調度には目がない。近くで見つからない時は通販でも探している。
 松本市に受験で訪れた時に、大学の下見よりも先に開智学校を見学に行ったくらい、明治期の洋風木造建築には興味がつきなかった。
 明治9年に棟梁の立石清重が設計した、東洋と西洋が渾然となった学舎で、国宝に指定されて即座に耐震工事に入る予定だったのだ。
 卒業が近くなる頃まで工事期間中で、休館になる最後の機会なので受験よりもその空気感を楽しむことが優先だった。再び訪問できるのは就活中の多忙を縫ってのことだろう。
「最近の御宝は何か見つかったの」
「そうね。手鏡かしらね」とスマホで画像を探す。
 メルカリで落札したもので、鏡面の端の方に曇りがあるので格安、訳ありという記述があった。表は黒地に市松模様が螺鈿細工の貝殻で描かれている。光を集めて、極彩色にじわりと輝く。明治初期のものらしい。漆塗りの柄はところどころが薄くなっていて、愛用されてきたことがじんわりとわかる。
「多分、日露戦争前のものらしいわ、これ」
「歴史教科書じゃん」
「これ鏡なの」
「そうね」と口籠った。
 そう。この鏡を入手した頃から、わたしのそっくりさんを見かけたという噂が出始めた。
「まさかね、鏡の中の自分が歩いていたりして」と私は半信半疑で言って、周囲はわっと湧いたけど、自然とは笑えなかった。
 

 そのひとは闇の中から現れた。
 透き通るような白い肌に、手入れの良い黒髪が背中を覆っていた。
 細面の表情は暗がりの中に沈み、唇だけが血の色をして艶やかだった。
 彼女は住宅街のLED街灯の光の中に姿を見せて、淑やかに笑顔を見せた。灰青い光量は逆にあるけれど、前髪の影でさらに目元が隠れてしまった。
「北川史華さんですよね」
 名前を呼ばれ、どこかで知り合った人かもしれないと、訝しく思いながらその人の顔を盗み見ようとした。
「鳴神六花です。突然にごめんなさいね。本当は仲介者を通して、最初の訪問をするのだけど。怖がらないでね。お母様からの緊急のご依頼なの」
 そうして彼女はわたしの母の住所と名前をすらすらと語った。それを聴きながらLINEの履歴を確認してみたら、確かに母からのMessageが来ていた。
「どういうことでしょうか?」
「あの手鏡なの。貴女も予感はお持ちでしょう? あれは人を複製する鏡なの」
「複製?」
「そしてね。見かけはそっくりだけど、性格は真反対になることが多いわ。そうなるともっと早くに発覚するのだけどね」
 彼女はわたしにすっと接近してきた。
 もう秋口なのに真夏のような薄手のワンピースを着ている。飾り気のない生成りの布地。それがとても彼女に似合ってると思った。
  微風に乗って花の香りがした。
 六花と名乗る女性は、まるで昔から友達だったかのように隣に来て、そっと歩き出した。意識してるのかしないのか、歩き出しに少し肩が触れた。
 まるで誘うように。
 わたしもその歩みに沿って並んで歩いた。
「母からの依頼ですって」
「そう。神奈川にも、ご実家にもいるのよ。今もあなたが」
 躓いてしまうような一言だった。
「それはわたしなの。本当に?」
「ええ史華さんそのものなの。それでもスマホに電話してみたら、信州大にいるでしょう。あちらの史華さんは留学をしたいからって、神奈川でバイトしているそうよ。学校は休学扱いにしたって言ってね」
 留学をしたいという思いはあった。それを両親に話したことはない。それでこちらでバイトを始めたのだ。それもこっそりと。
「ご両親はむしろ大学生になって、活動的になったとお喜びになってたそうよ。それで先週のことだけど、バイト帰りにねって、メールでお買い物リストを送って頼んだの、貴女に。そうしたら『何言ってるの。わたしは松本だよ』って返信が来たそうよ」
「すみません。そのやり取りに覚えがないです」
「あら、そう。だったらまた別の貴女が受けたのよ。きっと。その返信があってから、バイト先からご実家に帰宅してきた貴女をじっと見て。お母様が違和感を感じたのよ。それで私にご依頼があったということ。お分かり?」
「六花さん、あなたは一体?」
「私は舞姫、巫女なのよ。それで色々な悪霊とか、魍魎をお祓いしているの」
 ああ。
 そうなんだ。
 悪霊か魍魎なのね。
「これから貴方のアパートに行くわね。そこで鏡を預かるわ」


 住宅街の通い慣れた道。
 新しい街区ではないので、道が細く曲がりくねっている。家賃相場が安いので、この街区に住んでいる。建物も古びてはいるが手入れが良くて、軒先には住人が育てた季節ごとの花が咲いている、そんな温かい町だった。
 なのに今晩ときたら、重苦しい闇に包まれている。
 不思議と人通りがなく、二人の足音だけがかつん、かつんと響いている。まだ秋の入りの筈なのに、陽が落ちると風は冷たくなった。
 なんだかこの女性といると、空気の密度が上がり却って息苦しい。
 まるで大海の水圧にもがいているように。
 まるで海流の重圧に流されているように。
 手のひらにつかめそうな物理的な夜の闇。
 その苦しさはどこから来るのかと考えた。
 この哀しみは魂が裂けたものかと疑った。
 あの巫女という彼女は、わたしの鏡に何をするのかとも考えた。
 預かる?
 祓うと言っていた。
 お祓い?
 その後はまたわたしのものになるの?
 奪われる?
 いや盗むんじゃないの?
 本当に母親からの依頼なの?
 Messageはなりすましかも。悪霊も魍魎も全てが嘘で、わたしを騙す気かもしれない。彼女の存在が急に禍々しいものに思えてくる。
 ぞっと悪寒が背骨を駆ける。
 最初に見た時、あの鏡は掘り出し物だと思ったわ。
 手に入れてみれば、漆が薄くなり剥げていたり、磨かれた鏡面の、無数の小傷のひとつひとつが刻まれた歴史に思える。自分の人生の数倍を生きてきた証に思える。
 それが悪霊ですって。
 それが魍魎ですって。
 ぶわおっ・・・
 舞い上がった。いや駆け登った。
 見慣れた住宅街の、屋根が足元にある。もうそれは初めてみる心躍る光景だ。
 闇が押し固めてできた階段を、いや梯子を、いや糸のようなものを、わたしは苦もなく駆け上がる。身体が軽い。羽のように軽い。
 わたしは中空で嘲笑った。髪がばさばさと風を巻いて暴れている。
 あの六花はこの高みには来れない。そうよ。地べたを這いずる、翼のない生き物に過ぎない。
 こんなにも夜は自由なのに。
 こんなにも雲には届くのに。 
 六花がきっと瞳を開いて睨んでいる。
 そしてその双眸は黄金色に輝いていた。

 わたしは舞い降りた。
 化鳥が羽を畳むように音もなく。
 木造のワンルームのアパートは側面に階段があり、上下階の4部屋が南に向いていた。けれども敢えて私は一番西側の部屋を選んだ。
 西陽が辛かったが、ベランダごしに見切れているけど改修工事中の開智学校が見える。
 屋根下から一部は工事用の防音幕に覆われているけど、蒼い鐘楼が風格を持ってそこにあり、工事を終えて内部に入れる日を心待ちにしている。
 静かに階段を上り、自室の前に立ちキーを探した。
 廊下の照明がちかちかと瞬いている。
 見つからない。バックの底までも探ってみたけど、キーホルダーの感触がない。そんなハズはないと焦っていたら。
 ドアがかちゃりと音を立てて開いた。
 心臓が音を立てて鳴り、わたしは後退る。
 部屋の灯はついてない。その隙間からぞろりと影が人間の形に結晶する。
「遅かったわね」
 そこには先刻の六花が、酷薄な笑みを含んで立っていた。途端に動けなくなった。気づくと足元が凍っている。
「寄り道をしたのよね。初めて飛んだ貴方は、蒼い鐘楼の周りを戯れに飛んでいると思っていたわ」
 痛覚を破壊するほどの稲妻が、眉間に疾った。


 ちっと火花が弾けた。
 六花さんは振り返って微笑したので、わたしは部屋の明かりを灯した。
 つい先刻までは、その戸口に「わたし」が立っていたのに、今は影も形もない。廊下の切れかけた蛍光灯で、明滅する廊下が見えるだけ。
「・・・あと4人かな」と彼女は呟いた。それから「もう同期した?」と尋ねてきた。
「はい。多分」と自分でも声に自信がない。
 さっきまでの「わたし」の記憶が奔流となって脳内に挿入されてくる。今日は学校に行き、学食で食事をして女友達と話をしていたらしい。どうも彼女たちは、あの鏡の画像は初見のようだ。この友人たちの線はこれで消えた。
「これを返しておくわね」とキーホルダーを渡された。
「さっきあの娘から、出会い頭にスッておいたのよ。私って手癖がよくないから」
 ということはこのキーホルダーがオリジナルで、わたしのバッグにあった鍵は今頃は消失しているだろう。
「お手数かけます」
「でもね。一番手っ取り早いのは、あの鏡を消してしまうことなんだけど」
「いえ。ごめんなさい。それはどうしても残しておきたいので」
「まあ、いいわ。私も食餌に事欠かないから」
 お祓い代のことかな、と思った。
 このお祓い代は母が出してくれるそうだけど、本当に心苦しいので、なんとか負担しようと思う。それよりも明治期からという、あの鏡を手放すわけにはいかない。

 手鏡は物憑きというものらしい。
 長期に愛用されてきた日用品に、人格が宿るものという。
 この鏡はそこに映る人物像を、川や湖畔などの水面に合わせ鏡に映して像が定まったときに、自分の別体が出現するという能力を持つ。しかしそれは水面がそれこそ鏡面のように澄んでいた瞬間にしか発動しないはずだった。
「まさかInstagramに反応するなんてね」と六花さんは嬉しそうに言う。
 入手した記念にと思って、自分を映した画像をInstagramに上げた。ところがそれをDLして収めたスマホ、その人物の周辺に「わたし」が現れてしまった。
「まあ、インスタもネット上の川でもあるしね。画像は鮮明だし。幸いにも全てのDL画像ではなくて、何度も何度もcloudから呼び出して眺めている人の所にしか現れてないのは、幸いだったわ」
「そのう、これまでのわたし、六花さんに何か失礼なことしていませんか。こうして同期して記憶を辿ると、何だか酷いことをやってそうで・・」
「そんなことないわ。全ては貴女自身の、あり得た側面が出ているの。人生の選択肢のひとつひとつに自分自身がいるって言うのかな。それはそれで贅沢よね」
 夏休みに神奈川に帰省して、両親に留学のことを告げた。
 後期は休学することにして、留学費用の残額を時給の高い神奈川でバイトをすることにしていた。ところがこの松本市でもわたしのインスタが更新され続けている。友達に電話をすると、やはりそこにいるらしい。しかも衝撃的なことを言った。
「また彼と付き合うことになったのね。応援するわ」
 息を呑み、口籠った。
「昨日もデートしてわね。ほら史華の好きな骨董巡り? 彼の車でラブラブしていたわよね」
 心に確信を持って、両親に相談した。
 そこで長野県でお祓いの活動している陰陽師として、鳴神六花さんをご紹介いただいたのが先週のことだった。
「それにしても、彼氏のところにいる貴方を同期するのが最後でいいのよね」
「ええ。お願いします」
「その貴女を消してからは、難物よね」
「そうなんです。きっちりとお別れした筈なのに。あの男ったら!」
「きっと貴女に来るわよ。一度復縁したのに、また振ったりしたら。それこそ蛇の生殺しよ」
 あの男との半ば同棲生活が今も続いているなんて、ぞっとする。あいつのキスの味が蘇って、肌に鳥肌が立った。
「覚悟はしています。コテンパンに振ってやります。わたし、これまで猫を被って来ましたからね」
「ふふ、女はみんなそんなものよ。少しずつ相手好みに寄せて、そっと擦り寄っていくのよ。まるで別の人格でもあるようにね」
 それにしても。
 不思議な魅力と、無尽蔵な霊力をもったひとだと思う。この幻想的なわたしの依頼を真剣に聞いてくれて、しかもこうまで手助けしてくれる。
 けれどもバイトを中断してしまったことは本当に残念だ。そこで思わず「あっ」と小さく叫んだ。
「気づいてしまったんですけど」
「何かいい事なの、それは」
「何人もいるわたしは、それぞれバイトしていますよね」
「そうね」
「そのバイトの入金先はひとつですから、今月は結構貯まっていると思うんです。それなら留学費用もお祓い代もなんとかなるかもって・・」
「はっは。そうよね。銀行口座は複製できないし。よかったわね。鵜飼の鵜みたいに、皆がそれぞれに稼いでくれているわ。貯まるまで、もうしばらく待つ?」
 いやいやとこめかみを抑えて目を閉じる。
 後期が始まって学校が再開してからは、よりまずい。
「すみません。やっぱり夏の終わりまでにお願いします」
 六花さんは少女のような声で笑った。
「一夏の夢にしてしまえば、皆も納得よ」と。


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