伏見の鬼 4
花見の頃合である。
文久三年の春、京においては未だ戦火のきな臭さはまだない。
然るに不逞の脱藩浪人が、血走った眼で往来を歩くことが多くなった。 彼らは月代も剃らず、浅黒い肌に黒々とした無精髭を蓄えている。湯浴みどころか行水もしないので、獣の気風を備えている。彼らの姿があればぴりりした緊迫があり、風の往来も遠慮がちになる。
先月の事である。
今上天皇が賀茂上下神社へ行幸になり、攘夷を祈念された。在位中の行幸は幕府開闢も間もない寛永以来のことで、皇の慶事に京は沸き立ったという。
その行幸に供奉された公家は時の関白鷹司輔煕を始め前関白、右大臣など綺羅星の如くであり、それを警固する武家衆も将軍家茂を筆頭に後見職一橋慶喜、各々方十一藩で固めていたという。
将軍職の供奉も三代家光公以来というのに、席次の扱いは屈辱的なものであった。かつて家光公は公家衆より遥か上座に座していたが、家茂公は右大臣以下の下風に置かれた。そして朝廷は列強に対し攘夷の武威をと、将軍に対して期限を切って迫ったのである。
その行幸の折、清河八郎という山師が道先案内をし、近藤以下の天然理心流の一派は上洛した直後で、茅深い壬生の土豪宅に押し込められた。
その事由は露知らず。
知れば憤怒が滾るだろう。
京に着いてみれば将軍警固の攘夷隊とは名ばかりで、ただ無為に無聊な月日を追っていたのである。
無論、彼らも綿々たる家系図などは持たぬ士侍である。いやむしろ侍として心根は無垢であり剛毅でもある。江戸八万騎と鼻高々であった旗本当主が、攘夷の気風に怯え次々と若隠居して、幼児を上座に据える。そして戦さ場から続々と遁走するのを見た。
或いは質流れの兜や胴丸を列を成して漁っている。その背を総司は嗤いなが見ていたのである。
さてもさても。
彼の足は件の下賀茂神社に辿り着いた。
その楼門は先だっての行幸に合わせて、造替されたばかりで、今だに木香が強く立ち籠めている。その大鳥居の手直しが行われていると聞いた。行幸の日限が迫り、手を端折る工程でもあったかもしれぬ。
その現場を見聞に来たのである。
大鳥居の周囲には竹矢来が組まれ、同じく竹の足場が組まれている。その先端に立つ鳶職を、往来の群れに紛れてじっと見入っている。
総司の剣の鋭さというのは、その心眼の確かさにある。
してその足捌き、体の流れ、剣筋の行方を敵の目から読むのである。剣で斬ろうと思うな、眼で斬れ、と道場で指導してきた。
その現場には、姿はない。
では検討違いであったか。
踵を返そうとする彼の足がその場に縫い止められる、がそれをそよとも周囲に気取られる総司ではない。
その男は鳶職の見習い衆の風体である。
長々としなる竹束を右肩に乗せて飄々と歩いている。その軽やかな脚は、雪原に遊ぶ真鶴のように、重量というのを感じさせない。
身のこなしの重心の動き、殊に腰捌きが群を抜いている。荷担ぎしていようと、清流の如く涼やかに滴るようだ。
それで総司は得心がいったのである。
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